生活の中のことば

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生活の中の言葉 1~10話

第1話 他力(たりき)

 一般には、他(ひと)の力をいいます。自分は、何もやらずに、誰かがしてくれるだろうと期待する意味でつかいます。
 しかし、他力という言葉は、真宗では大切な言葉で、親鸞聖人は「他力とは、人の力ではなく、ほとけさまのおはたらきをいう」と教えられました。

―ひとくち法話No1より―

第2話 往生(おうじょう)

 交通渋滞で「立往生」とか、困ったことに出会って「往生した」といいます。
 しかし、正しい意味は、この反対で「往(いき)生(いきる)」ですから、行き詰まりから抜け出ることです。だから仏教では、はっきり「ほとけの国に生まれること」を往生というのです。

―ひとくち法話No2より―

第3話 娑婆(しゃば)

 梵語(ぼんご)で忍ぶという意味の音訳。人間界のこと。この世は、悩み苦しむことが多く、それに耐え忍んでいくことから、この世を娑婆という。
 自由のない刑務所から出ることを娑婆に出ると使う人がいる。忍土(にんど)には違いないが、地獄よりはましだという意味でつかわれている。

―ひとくち法話No3より―

第4話 食堂(じきどう)

 一般には食事をさせる店や各家の台所を食堂(しょくどう)と呼んでいますが、もとは寺院の七堂伽藍のひとつでした。僧房なので、「堂」の一字がついており、食事のマナーもきびしいものがありました。
 今日でも、食前食後に手を合わせ「いただきます」「ごちそうさま」というマナーは生活の基本になっています。

―ひとくち法話No4より―

第5話 信心(しんじん)

 信心には二種あります。普通は、神・仏を向こうにおいて、自分の願いごとを一心にたのむことを「信心する」と言っています。
 しかし、真宗はこれを自分勝手な願い心だとして嫌います。
 真宗の信心はほとけの方(かた)より『必ず救う』と私にかけられたお心に『ハイ』とうなずくことを「信心」と教えられています。

―ひとくち法話No5より―

第6話 方便(ほうべん)

 世間では「ウソも方便」などと使い『いいのがれや、ごまかしの代名詞』になっています。これは大きな間違いです。
 「方便」とは仏教の言葉で「正直を方をいう。己を外にすることを便という」とあります。ほとけが、真宗の教えを私たちにわかるように、平易に説いてくださる心です。

―ひとくち法話No6より―

第7話 縁起(えんぎ)

 「縁起をかつぐ」「縁起が悪い」「だるま・招き猫は縁起物」などといいます。何かをするときのよしあしの判断に、この言葉がつかわれています。
 しかし、仏教でいう正しい意味は「縁起とは、すべての因(原因)と因に働きかける縁(条件・きっかけ)によって、生じ変化し滅ぶという永遠の真理」です。だから、目先のできごとについて、自分の勝手な都合にあわせて使うのは間違いです。

―ひとくち法話No7より―

第8話 祈願(きがん)

 神・仏に『どうぞたのみます』と心を込めてお願いする行為が祈願です。初詣はその代表的な習俗といえましょう。
 しかし、親鸞聖人は、この祈願を「わたしたちの願いは、自分勝手なことばかりであること。仏さまは、そのような私の心をすべてお見通しであることだから」と教えて否定されました。
 だから、私たちは必ず救うと約束された仏さまの誓願に「お念仏を申すばかりなり」とうなずいて、お参りするほかありません。

―ひとくち法話No8より―

第9話 生死(しょうじ)

 ふつうは生死(せいし)と読みます。生きているか死んでいるか。生死の境をさまよう、生死不明などと使います。
 和讃では、「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし」とおつとめします。つまり生死というと、単なる生と死ではなく、私自身が今生きているこの娑婆・迷いの世界そのものを言い表す言葉となります。
 生死(しょうじ)界は苦海です。

―ひとくち法話No9より―

第10話 同行(どうぎょう)

 ふつう同行(どうこう)と読みます。同行する、同行者などと道連れの意味で使います。
 真宗では、○○寺の同行(どうぎょう)といいます。同じ教えをきき、同じ念仏を申す仲間のことです。

―ひとくち法話No10より―