専修寺について
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親鸞聖人のご生涯をとおして

第1回 ご誕生は京都日野の里

真宗を開かれた親鸞聖⼈は、今から800年程前にご誕⽣になりました。
京都市の東南、現在の伏⾒区にある⽇野の⾥という⼭⾥で法界寺(ほっかいじ)のほとりがご誕⽣の地です。
お⽗上は藤原⽒の貴族の末流で藤原有範(ふじわらありのり)といい、⺟上は吉光⼥(きっこうにょ)と伝えられています。
当時は藤原⽒中⼼の貴族政治から武家政治に変わろうとした激しい動乱の時代でした。
また、⼤地震や飢饉(ききん)もあり、うち続く戦乱と天災地変に⾒舞われ、不安とおののきの中で⼈々の⽣活は⼤変だったようです。
法界寺は当時は天台宗で、現在は真⾔宗のお寺で、幼い頃の聖⼈はご両親と共に、この法界寺の阿弥陀堂で朝⼣合掌礼拝されておりました。
しかし、両親と暮らされた⽇々はわずかで、聖⼈4歳の時に、⽗君が、そして8歳の時には⺟君を相次いで亡くされました。
両親と死別された悲しみはいかほどであったろうと思います。
強く無常を感じられた聖⼈は後⽣の⼀⼤事(ごしょうのいちだいじ)の解決をめざして、出家得度(仏道修⾏)を決意されたにちがいありません。
⽇野の⾥、法界寺のすぐ近くに聖⼈のご誕⽣を記念する誕⽣院があり、境内に親鸞童⼦像が建⽴されております。
聖⼈出⽣の地として、ここ⽇野の⾥を訪れる聞信徒の参詣は今にたえることがありません。
お互いに⽣涯に⼀度は訪ねたいものです。

第2回 得度は9歳青蓮院で

幼くしてご両親を亡くされ、激しい無常を感じられた親鸞聖人は、出家の志を深く心に固め、叔父の日野範綱(ひののりつな)卿に伴われて、京都の粟田口にある青蓮院(しょうれんいん)の門をくぐり、出家得度(しゅっけとくど)の式にのぞまれました。九歳の春のことでした。
得度とは、髪を剃って僧になることです。当時の院主は慈円(慈鎮和尚とも言う)で天台座主(てんだいざす)をつとめられた高僧でした。しかし、得度はスムーズに行われなかったのです。得度には中務省(なかつかさしょう)という役所の許可が必要だったのです。その許可が遅れ、夕暮れ時となってしまいました。慈円院主が、今日は日も暮れかけたので、明日にしようと言われた時、幼い親鸞聖人はこのような歌を詠み院主に訴えました。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

今、咲き誇っている桜も今晩嵐にあって散ってしまうかもしれない。私は今、得度式をしてほしいという切なる願いをもっています。仏法には明日は無いというきびしい思いだったのでしょう。
歌に託された童子の心根に感嘆された慈円院主は、さっそくその夜に得度出家の儀を行い、僧名を範宴(はんねん)と名付けられたのでした。
現在、巨大な楠に囲まれた青蓮院に『親鸞得度の間』があり、内陣の左右には、慈円と親鸞の真影がかかげられています。範宴、後の親鸞聖人の、この得度由縁から、高田本山の得度式は昼間でも扉を閉ざして、夜になぞらえて執り行われております。

第3回 比叡山での血のにじむ修行と研鑽

9歳の春、京都の青蓮院で得度・出家された親鸞聖人は、修行のため比叡山に登っていかれました。
比叡山は、天台宗の開祖である伝教大師が開かれた修行の道場です。山上の自然、殊に冬の寒さは格別で、幼い聖人にとっては耐え難い日々であったにちがいありません。
天台宗の教えは『法華経(ほけきょう)』に説かれている「この身このままで、この世でほとけになること」が目標です。それには「こころの動きを止めて、真理をみつめる」修行に徹することでした。
ほとけになるためには、何よりもまず、わが心が濁りのない清らかなこころに変わらなければなりません。純粋な聖人は、そのために忠実に教えに従って脇目もふらず、修行と学問に努力されましたが、修行すればするほど、わがこころの醜さ、弱さが見えてきてどうにもならなかったのです。
その頃の聖人の苦悩を『歎徳文(たんどくもん)』には「例えていえば、静かな水面をじっと見つめて精神統一をはかっても、こころの中のざわめきを押さえることが出来ません。一天の曇りもない清澄な月光を思い浮かべて、濁りのないこころになろうと願っても、迷いの雲がこころを覆ってしまう」と述べられています。
こうした苦悩や疑問をかかえての長い修行を通して、自力の修行によっては、ほとけになることができない自分であることを自覚された聖人は、自分のような者でもほとけになる道はないものかと、聖徳太子ゆかりの地を訪ねる旅に出られたのでした。山に登られてから十年の歳月が経っていました。

第4回 聖徳太子廟に詣でて

比叡山での血のにじむ修行と研鑚を続けられた親鸞聖人は、はや19歳になられました。その間、この身このままで仏になるには、濁りのない清らかな心、鏡のように澄み切った動かない心にならねば、悟りの境地には入れないと、法華経の教えを信じて行を重ね、学問にも心血を注がれましたが、どうしても清らかな心になれず、また、心を静めることもできませんでした。
聖人は、この上は「日本に仏教を広められた、観音の化身と仰がれている聖徳太子に、この悩みを聞いていただこう」と考えられ、魂の解決を求めて、河内国、磯長の叡福寺にある聖徳太子のお墓に詣でられました。そして御廟(ごびょう)の前に座り、一心不乱に今までの苦悩や、迷いの解決の道を聖徳太子に念じられたのです。
二日目の深夜でした。つい、うとうとと、まどろんだ聖人は恐ろしい夢をご覧になりました。
「わが弥陀と観音、勢至は、この塵にまみれた濁りの世を救うために懸命になっていられる。この日本は真実の宗教が栄える土地である。よく聞け、私の教えを。お前の命はあと十年余りである。そのいのち終われば、お前は速やかに浄らかな土へ入るであろう。だからお前は、今こそ菩薩を深く心から信じなければならぬ」と。
感受性高く、自己に厳しい聖人は、この聖徳太子のお告げをどんな思いで受けられたでしょうか。突然、自己の死との対決を迫られた、この夢告は以後の聖人の求道に決定的な影響を与えたと言えます。

第5回 青年僧『範宴(はんねん)』の懊悩

私たち凡人(ぼんぶ)の悩みは何かと問われたら、年齢はとりたくないとか、病気が早く治ってほしいとか、苦しまずにうまく死にたいとか、もっとお金があったらとかいう類(たぐい)のものです。
青年僧「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんの比叡山時代の悩みはそんなものではなく、もっと奥深いものでした。いくら勉強しても修業をしても、内からむらむらと湧きだしてくる貪欲心(とんよくしん)を消そうとしても消せない人間としての悩みでした。たとえまた、自分自身は修業して救われたとしても、比叡山の麓の大原の百姓たちは如来さまの救いにあえるのだろうか、琵琶湖で網を投げる漁師たちはどうだろうか、西陣で機を織る女たちはどうだろうか、荷物を担いで物を売り歩く商人たちは救われるのだろうかと悩み続けられたのでした。
当時の比叡山に登って学問をし修業ができるのは、ごく限られた貴族等特権階級の子弟だけしか許されない時代です。純粋に思惟する範宴さんは山で研鑚し続けられなくなって、今の言葉でいえば強いストレスにとらわれ、山の内外を放浪して、何とか「誰でもが仏に会い救われる法」はないものかと、観音さんの化身である聖徳太子を祀ってある大和の寺々を訪ねて歩かれたのでした。
現代の私たち真宗の同行は、本願念仏によって誰もが例外なく救われるということになっていますが、この真宗の教えが確立されるまでには、このような青年僧「範宴」さんの深くてまじめな悩みを経過して出来上がったことを忘れてはならないのです。

第6回 六角堂での夢告(むこく)

修業者だけでなく、誰でもが救われる道はないものかと苦しみ悩まれた「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんは遂に比叡の山を下り、京都の六角堂に籠もられました。
六角堂は慈悲の象徴である観音さまをまつってあるお寺で、その化身である聖徳太子が建てたといわれています。ここで100日間、日夜命をかけて、ただひたすらに誰でもが救われる道を求め続けたのでした。ところが100日間の参籠(さんろう)の終わり頃の95日目に、疲れ果ててうとうとと意識のもうろうとしていたときに、枕元に不思議なことに観音さまが聖徳太子となって現れたのです。
聖徳太子は「あなたの悩むことはよくわかるぞ、その道を解決するには、ここから東の方、数里のところ、東山のふもとの吉水に『法然(ほうねん)』という人がいる。そこに赴いてその法を聞け」という夢のお告げがあり、さっと姿を消されたのでした。
「範宴」さんはその足でそのまま、五条の大橋を渡り吉水に馳せ参じられました。これで完全に比叡のお山と決別しました。それ以後はひたすらに「法然」さまの所に通い続けられたようです。
修業者だけでなく百姓も町人も武士も商人も含めて、あらゆる人のたすかる浄土の教えに、やっと会うことができたのでした。得度以来約20年間のご苦労もようやく実を結び、「法然」さまから「綽空(しゃっくう)」という名も頂き、更なる浄土の教えの研鑚に努められたのです。

第7回 法然上人との出会いの意義

人生は出遇いです。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。そのことがお互いの生涯を決めていきます。
親鸞聖人は、20年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現に仰ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠をされたのでした。
そして、太子の夢告に導かれて、東山吉水の草庵に法然上人を訪ねられました。草庵には、上人の教えを聞こうと毎日庶民が群参していました。聖人もその一人となって百日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(総序)』に

「遇い難くして、遇うことができました。聞き難くして、真宗の教えを聞くことができました」

と感佩されています。また『浄土高僧和讃(源空讃第4首)』には

「本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」

もし法然(源空)上人との出遇いがなかったら、せっかくこの世に人間として生まれてきても、救われることなく無駄な人生で終わってしまうところでした。と述懐しておられます。
聖人をして、ここまで表現された師法然上人との出遇の意義を私たちは、どう理解したらよいのでしょうか。それは、我が国(片州濁世)に、阿弥陀如来の他力念仏の教え =真宗= がついに開顕したからなのです。

第8回 お念仏はみほとけの呼び声

法然上人の教えは、誰にでもわかるお話でした。
ほとけになる道に二種あります。ひとつは、自分の努力でほとけになる道です。学問をして賢くなり、戒律を守って生活を正し、きびしい修行に耐えて精神統一をはかり、日夜に読経をして善根を積みます。このような精進によって、心を清らかにして、この世でほとけになっていく道です。これは、遠い道のりを徒歩で旅するようなものです。非凡な知識と十分な体力と苦難に耐えていく精神力が必要ですから、至難な道、「難行道」といっています。
もうひとつの道は、「南無阿弥陀仏と仏の御名を称える者は、必ず救います」という阿弥陀仏の誓いを心から信ずる道です。これは、老少善悪の人をえらばず、どんな愚かな者でもすくわれるから、行きやすい道、「易行道」といっています。
そして上人は話をつづけました。
お念仏は、私たちの願いをみ仏に届ける言葉ではなく、「わが名を呼ぶものは必ず救います」というみ仏からのよび声なのです。だから私たちは、このみ仏のよび声を素直に聞けるかどうか、ここが一番大事なところです。
この他力救済の核心を聞かれた親鸞聖人は、今までに経験したことのない大きなよろこびがわき出てきたのでありました。

「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう」 『浄土高僧和讃 (源空讃第2首)』

と、和讃にもあらわされています。

第9回 信行両座(しんぎょうりょうざ)のおはなし

法然上人の念仏教団の最盛期には、お坊さんだけでも400人近くが集まっていました。
ある日のこと、親鸞聖人が法然上人に「たくさんな弟子がいますが、お念仏の教えを正しく聞いている者は何人ほどいるでしょうか。一度知りたいものです。」と言われ、「では、皆にたずねてみましょう。」と皆が集まった所で「浄土に生まれる最も大事な因は何か」と問われたのです。
念仏を申すこと「行不退(ぎょうふたい)の座」か、本願を信じること「信不退(しんふたい)の座」かのどちらかに座るように言いました。
さあ、大変です。日頃の聴聞(ちょうもん)が確かであるかどうかがわかるのです。お互いに自信なさそうに、顔を見合わせながら、大多数の者は行不退の座に座りました。親鸞聖人と他数名だけが信不退の座に座ったのです。法然上人は、皆が座ったあとで、「それでは、私は信不退の座に座りましょう。」と、親鸞聖人と同じ信不退の座に座られました。本願を信じることが往生の要であるとお示しになられたのです。
私たちが最も親しんでいる「不退の位すみやかに」の和讃に

「恭敬の心に執持して」(信不退のこころ)
「弥陀の名号称すべし」(行不退のこころ)

という句があります。私たちは「他力念仏」と聞いておりながら、ついつい称名(お念仏)に力がはいって数多く申すほど功徳も大きくなるような気がしますが、そこをこの和讃は、たくみに諭してくださっています。

第10回 信心一異のおはなし

法然上人のもとで、聞法を続けておられたある日のことです。親鸞聖人が「私の信心と、師・法然上人の信心とは同じです」と言ったので、多くの先輩僧たちと論争になりました。先輩たちは、「師の信心と弟子である私たちの信心が同じであるとは、とんでもないことだ。師・上人に対して失礼な話ではないか」というのです。
親鸞聖人は「智慧、才覚、学問では、法然上人におよぶべくもありませんが、信心はみほとけから賜った信心(他力の信心)だから、師・上人の信心も私の信心も同じです」と言って自分の思いを曲げませんでした。
そこへ法然上人が出てこられて「自分のはからいでつくる信心(自力の信心)なら、信心は各人各別ですが、みほとけからいただく信心は皆同じです」と申されました。
また、お念仏は「わが名を呼ぶものは、必ず救いますという阿弥陀仏の呼び声」であり、「その阿弥陀仏のお約束を信受すること(信不退)」が真宗の要であると親鸞聖人は領解されました。このようにして聖人は、自力の限りを尽くした比叡山の二十年間の修行を経て、ようやく法然上人のもとで阿弥陀仏の他力信心を獲得し、往生浄土の道を真っ直ぐに歩み出されたのです。聖人はこの慶喜の決意を「雑行を棄てて本願に帰すと」(『教行証文類』)著され

本師源空よにいでて 弘願の一乗ひろめつつ
日本一州ことごとく 浄土の機縁あらわれぬ  『浄土高僧和讃 (源空讃第1首)』

と讃ぜられたのです。

第11回 念仏弾圧の狼煙

法然上人の教えに帰依する人々が増え、門弟たちが急増するにつれ、庶民はもとより悪人女人(あくにんにょにん)の身でも念仏を称えれば往生(おうじょう)がかなうという教えは堰を切ったようにあっという間に広がっていきました。
そうした中を、吉水入室後四年の親鸞聖人に大きな喜びの日がきました。それは、師の法然上人から『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写を許されたからです。この本は法然上人六十六歳の折、九条兼実の求めに応じて専修念仏(せんじゅねんぶつ)の根幹となる教義を撰述したもので、少数の優れた門弟のみに見写が許されていました。弱冠三十三才の聖人が書写を許されたということは上人から高弟として嘱望されていた証拠であります。親鸞聖人の感激はいかばかりであったでしょう。
しかし、この新しく台頭してきた吉水教団を快く思わない人たちがいました。特に比叡山の僧たちは、法然上人がこの山で修行した関係もあって、「念仏宗」という宗派をたてたことに対して特に強い近親憎悪感をいだいていたといいます。
一方、都では念仏が盛んになるにつれて、念仏者の中に勝手な振る舞いをする者がでてきたので法然上人は『七箇条制誡』をつくり門弟たちをいましめ、親鸞聖人も「僧綽空」とご署名になっています。
けれどもついに公然と非難の火の手があがったのです。今度は法相宗で南都仏教に強い影響力をもつ、奈良の興福寺が専修念仏の禁止を朝廷に訴えたのでした。この訴えは世に「興福寺奏状」といわれています。

第12回 承元の法難(じょうげんのほうなん)

奈良の興福寺が、朝廷に念仏禁止を訴えている時、念仏教団にとって大変困ったことがおきてしまいました。
それは、住蓮・安楽という法然上人の弟子が、念仏の集会を催したところ、後鳥羽上皇に仕えていた女官数名が、その集会に参加し、念仏こそ私たちが救われていく教えであると確信し、髪をおろしてしまったのです。これを聞いた上皇は激怒しました。そして興福寺の訴えを受け入れ、ついに承元元年(1207)に風紀を乱すものとして念仏教団を解散させてしまったのです。
そして、住蓮・安楽ら4名を死罪に、法然上人をはじめ七名を流罪にしました。親鸞聖人もその一人で、越後、今の新潟県の国府に配流となりました。これが世にいう「承元の法難」で仏教史上、類をみない弾圧事件でした。
ときに法然上人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。親鸞聖人は、師・法然上人とのお別れに際し

会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを

と、詠われました。そして、法然上人は

別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ

と、詠まれたと伝えられています。これがおふたりの今生の別れとなりましたが、次はお浄土で会えるという喜びの詩でもあるのです。

第13回 越後への流罪

「承元の法難」に会われた親鸞聖人は越後(えちご)へ流罪と決まりました。当時の規則では流罪は死罪につぐ重罪でした。聖人は輿に乗せられ、追立役人に警護されて、京都から逢坂の関、船で琵琶湖を北上、山路を越前越中、それから船で越後国分寺に程近い、居多ヶ浜(こたがはま)に上陸されました。
しかし、流罪という不条理な刑罰を被ったことについて、聖人は後年『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の後序に

「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ。・・・中略・・・罪科を考えず、あるいは僧儀を改め姓名をたもうて遠流に処す。予はその一なり」

と述べられています。しかしまた、従容として刑に服された師法然を見るとき、聖人は「都から遠い越後という未開の地では、人々は生死に迷っているだろう。師法然が流刑になられたからこそ、越後の人々に仏の慈悲を説く機会がこの自分に訪れたのである。これも師から教えを受けたからこそだと感謝し、潔く配所へ赴こう」と師へのお陰と受け取っていかれました。
越後では、最初の一年は役人の監視下にあり社会から隔離されたままで、食は一日米一升、塩一勺だけで、翌年春になって種子籾をもらい、以後は自活の外に生きる道はありませんでした。自給自足に備えた、荒れ地の開墾も、流人の聖人が耕作できる土地は河原くらいだったのです。

第14回 非僧非俗のくらし

越後での初めの一年は米と塩の生活で、二年目以降の自給自足に備え河原など荒れ地の開墾に明け暮れて行きました。
流刑者に課せられる掟通り、役人の監視も厳しいものでした。しかし、聖人の信教の深さに役人や寺僧たちが次第に心服していったのも当然のことだったのでしょう。二年目に入ると、行動も相当自由になりました。
このころ聖人にとって大きな喜びがありました。それは、恵信尼(えしんに)さんとの結婚です。家庭のぬくもりを感じられながらも、厳しい日々をこえていかれた事でしょう。恵信尼さんはまれにみる教養の持ち主で、文才もあり書も巧みでした。彼女をよき伴侶とし、人間として、夫として、親として数々の喜びや悲しみの中でいよいよお念仏の深さも増していきました。
さきに「辺地の群類を化せん」と志された聖人は、比叡山で得られた知識をもって、当時鎌倉幕府が進めていた土木治水工事に越後へ送り込まれてきた流民層が負傷したりしたものに止血をしたり、胃腸に寄生虫をもつものたちを苦しみから解放してあげたりしていたので、次第に流民たちが聖人を受け入れていきました。
こうして、「僧に非ず俗に非ず」といわれた聖人の説法に、辺地の人たちは真剣に耳を傾けお念仏の心が浸みわたっていきました。こんな頃、晴れて流罪赦免状がとどいたのでした。

第15回 続・非僧非俗のくらし

聖人の越後での流罪人としてのくらしは、現代人の私たちにとっては想像を絶するものであったと思われます。
恵信尼さまというよき伴侶があったとはいえ、4人の子たちを養育せねばなりません。そのためには、流罪の身でありながら、普通の家庭と同じように、それなりの生計を立てねばなりません。食事の用意をしなくてはなりません。衣類もその時その時に応じて、必要だったでしょうし、また、住まいの環境も整えなくてはなりませんでした。
時がたつにつれて監視の目も緩やかになり、国府の草庵にとどまってばかりおらず、近辺の普通の人たちとの交際もあったようです。これらの人の中には、天災や飢饉で飢える人も多かったでしょう。村から追い出されたり逃げ出したものもいたでしょう。あるいは、加持祈祷をすることが宗教であると思いこんでいる人も多くいたことでしょう。
このような普通の人と同じ視座で、人間とは何か、世間とは何か、苦とは何か、そして救いとは何かという事を語り合われたのです。
聖人がおのれを愚禿と言い、非僧非俗と言われた意味が、わかります。僧でもない俗人でもないということは、俗人でもあり、僧でもあるという意味なのです。念仏の教えがいよいよ真実(まこと)の教であると領解し、あらねばならぬという信心が固まっていった流罪の時代でありました。

第16回 関東への道すがら

建暦元年、親鸞聖人39歳のころ、越後への配流が解かれましたが、唯一の師匠、法然上人の訃報も越後へ届きました。
聖人は深く悲しみ、悩みました。流罪は許されたが、これから何処へ行くべきか、何をすべきか。法然上人のいない京へは今更行きたくもないし、越後に止まる気もない。随分と悩まれました。
そんな時、ひとつの転機が訪れました。もともと、仏法は、「辺鄙の群萌」(田舎の文字も読めぬような人々)を救済すべきものであらねばならないという基本的な考え方があったうえに、恵信尼さまの父の所領が常陸にあったご縁で、家族共々越後より関東へ移られる決心をされたのでした。関東への旅は大変なことであったと思われます。もちろん当時のことですから、徒歩です。この関東への道すがらも、多くの人々との出会いがあったことでしょう。
そのうえ、聖人はかねてから長野善光寺へお参りし、是非ご本尊の一光三尊仏を直接拝みたいという願いを持っていました。
事実、拝んでみると、ありがたいというか、もったいないというか、観音さま(慈悲)と勢至さま(智慧)を脇にはべらした阿弥陀仏の前に座ると、特別の感慨をいただかれたのです。その深い思いは、今まで書物で仏法を学んでいたが、それとは違った思いでありました。この一光三尊仏には、さらに多くの人々が、お念仏を喜んでくださる不思議なお力があるにちがいないと思われたのです。

第17回 板敷山弁円の改悔

親鸞聖人の関東での生活は、草庵のある常陸(ひたち)国を中心にして各地に出かけ、念仏の教えを広めるのが日課でした。
この地方には昔から、修行によって呪術を学び、加持祈祷(かじきとう)をする修験道が盛んでした。板敷山(いたじきやま)には、その山伏たちが修行する護摩壇までもありました。修験道は、祈りによって病気や災難、不幸を除き、欲望を満たそうとする教えです。しかし聖人の説く念仏は、修験道とは相容れない仏の教えですから、聖人の熱心な布教によって加持祈祷をたのむ人が減っていくので、山伏達はにがにがしく思っていました。
聖人49歳の秋のことです。山伏弁円は、聖人をこらしめようと板敷山で待ち伏せしましたが、すれ違いばかりで出会えず、ついに聖人の草庵まで乗り込んできました。そして、大声で「親鸞おるか!出てこい」と怒鳴りました。
このただならぬ声を聞いて玄関に出られた聖人は、何の気構える様子もなく、静かな態度で応対されました。この聖人の和顔に接した弁円は、今の今まで持っていた聖人への敵意や害心がいっぺんに消えてしまい、とたんに庭上に座して、聖人のおん前にひれふしてしまったというのです。これが有名な板敷山弁円のお話です。
弁円は、お念仏に生きる聖人こそ生身の仏さまであるとあがめ、刀杖を捨て改悔涕泣して弟子となりました。のちには明法房という僧名まで賜って、生涯聖人のお膝元で聞法にはげまれることになったのです。

第18回 高田の本寺ものがたり

29歳で他力念仏に帰依された親鸞聖人は、その後の越後(新潟県)での厳しい流人生活や関東における民衆教化を通して、庶民には念仏こそが確かな救いの教えであることを確信されました。そして、その教えである真宗教義の骨格を数年かけて『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』としてまとめ、聖人52歳の時、ようやく草稿ができあがりました。
今日、真宗教団では、この偉業を讃えてこの年(1224年)を「立教開宗」の年と位置づけています。そして、翌年には「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃(長野県)の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」という二つの有名な夢告がありました。
日頃から聖人の教えに耳を傾けてきた地元の念仏者たちは、これは阿弥陀仏からの勅命であると信じて、遂に一宇を建立したのでありました。これが高田派の起源です。また、その翌年、聖人54歳の時には、朝廷から「専修阿弥陀寺(せんじゅあみだじ)」という勅願寺の倫旨を受けました。これによって、聖人の教化活動は今までの遊行から本寺中心に変わっていきました。
そして、聖人の話を聞くために弟子は言うに及ばず、老若男女、貴賤の区別なく有縁の者が本寺に群参してお念仏を申し、み仏のお慈悲を喜びあったことでしょう。それはまた、ちょうど法然上人が京都の吉水の草庵で大衆にお念仏の教えを説いておられた光景と同じだったに違いありません。
このようにして、高田のお念仏はいよいよ広がっていきました。(『高田正統伝』を参照)

第19回 高田の本寺は真宗教団のはじまり

親鸞聖人が関東に赴かれるまでは、この地の人々は、お念仏の教えと無縁であったようです。そこには、山伏弁円の板敷山物語のような修験道という山岳信仰や加持祈祷などの呪術によって病気を治し、生活の不安や悩みを除こうとしたり、祖先の霊魂によるタタリを鎮めようとする密教的俗信が幅をきかせていました。
このようなところへお念仏の教えの種をまかねばという聖人の決意は、想像以上の固いものがあったことでしょう。使命感に燃える聖人が家族同伴で関東に入られたということは、お念仏の教えは老若男女、貴賤、僧俗の区別なく救われますという証拠を如実に身をもってお示し下さったものとうかがうことができます。
そして、ようやく十余年を経て、お念仏の種が関東各地に芽生えてきて、53歳の時に高田の本寺が建立されました。このことは、聖人の悲願が成就したという証明です。高田の本寺は、聖人が建立された唯一の寺院です。私たちの高田派の名称もここからきています。本寺における聖人のお話はいつも、『生死の苦海ほとりなし。煩悩愚息(ぼんのうぐそく)の凡夫が助かる縁は、恭敬(くぎょう)のこころで弥陀大悲(みだだいひ)の名号を申すばかりです』ということでした。
のちに関東のお同行が「往生極楽の道を問い聞く」ために、命がけで京都に帰られた聖人を訪ねたという話が伝わっていますが、本寺にはそういった真剣な心で、聖人のお話を一言一句も聞き漏らすまいと毎日大勢の参詣人が押し掛けていたに違いありません。

第20回 関東から京都へ 箱根にて

お念仏に無縁の関東の地に、念仏の種をまかれた親鸞聖人の教えは、高田門徒をはじめ各地に大きく広がりました。
しかし、関東に入られて20年、63歳頃この地を離れる決心をされました。少数の弟子をともなわれ、行脚の足を京都に向けながら、東海道の旅を続けられたのです。天下の険で有名な箱根にさしかかった時のことです。供に従ってきた性信房にこうおっしゃいました。「私が帰洛後どんな妨げがあるかも知れぬ。どうか私にかわって関東に留まり、門徒衆を教化してくれないか。」突然の仰せに当惑する性信房に、親鸞聖人は次の歌を示されました。

病む子をば あずけて帰る旅の空
心はここに 残りこそすれ

関東の門弟をわが子のように思っておられる聖人のみ心に、性信房はこの大任をお受けし、涙ながらに引き返したのです。
この時、聖人は愛用の笈を与えられたことから、この地は「笈の平」と呼ばれ「親鸞聖人御旧跡 性信房訣別之地」の石碑が歌碑と共に現存しています。
やがて、芦の湖畔、箱根権現にたどり着かれた時には夜も更けていましたが、権現が「わたしの尊敬する客がこの路を通る。丁寧にもてなすように」と、その示現が覚めやらぬ中に聖人が通られました。社人たちは、暖かくもてなし、親鸞聖人は三日三夜参籠、自ら木像を刻み献上されました。この木像は、現在も箱根神社に所蔵されています。こうして、京都への旅が、続けられたのでした。

第21回 関東から京都へ 三河にて

関東を後にした親鸞聖人は、箱根路を通り、各地でお念仏の教えをひろめながら、文暦2年(1235年)三河(愛知県)に入られ矢作川河畔にある太子堂に逗留されました。
この流域に住む民びとは各地に太子堂をつくり、太子信仰の盛んな地域でもありました。聖人はそんな太子堂の一つで、岡崎の妙源寺に17日間も留まって説法されました。
柳堂に腰をおろされた親鸞聖人は、「弥陀の本願はあらゆる凡夫を救わんがためです」と阿弥陀如来の本願をじゅんじゅんと説かれました。近隣の人々は聖人の念仏教義の深さに敬服して、真宗に帰依していきました。
当時、この太子堂の前に柳の大木があったので、里人は「柳堂」と呼び親しんでいました。国宝として現在も参詣人の絶えることはありません。この三河一帯は、後に高田の顕智上人(三世)、専信上人等が精力的に念仏布教をされた所で、次第に念仏の輪が広がっていったのであります。
ここ三河は、関東と関西を結ぶ中間的存在で、高田派寺院の最古の道場として、親鸞聖人の歩まれた貴重な足跡が残っていることに注目したいものです。
三河を発たれた聖人は、やがて近江(滋賀県)に入られ木部に錦織寺を建立され京都に向かわれたのでした。

第22回 帰洛後は法悦の著述

およそ30年ぶりで、京都に帰られたのは文暦元年63歳の頃でした。何処にお住まいになられたかは、ほとんどわかっていませんが、吉水時代の庵室「岡崎」とか五条西洞院(現在の松原通光円寺付近)などに、聖人は侘住居を移しておられたようです。
帰洛後30年あまりの生活は「法悦の記録」をまとめるのに心血を注がれたといえるでしょう。聖覚法印の『唯信鈔(ゆいしんしょう)』を再度書写されたのをはじめとし、聖人76歳の時には、『浄土和讃(じょうどわさん)』、『浄土高僧和讃(じょうどこうそうわさん)』を著述されました。そして、既にできていた『教行証文類』の加筆や清書もありました。また、『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』や七高僧(しちこうそう)のお聖教を日夜読まれ、私たちが読みやすくわかりやすいようにと、当時の今様風の和文に整えられた和讃の文面をおつくりになられました。
なお、和讃は83歳から85歳にかけて『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』ともうひとつ太子和讃ができ、86歳のとき『正像末法和讃(しょうぞうまっぽうわさん)』ができました。
忘れてはならないのが、私たちが朝夕お勤めする『正信偈』、『文類偈』はそれぞれ『教行証文類』の「行巻」の終わりと、80歳の時に著された『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』の中にあります。この外「百余巻におよべり」と御書にありますように、沢山の著書や書写されたもの、法然上人の『選択集』を延書にされたものなどがあります。
聖人の御自筆稿本はいずれも80歳代のものですから、幾多の苦難を越えてこられた円熟の境地からの聖人のお念仏に支えられた呼びかけを、私の身の事実の上にいただいていかねばなりません。

第23回 京での晩年

関東ではご家族とご一緒だったようですが、経済的な裏付けのおぼつかない京での生活を考えられひとまず単身で帰洛され、三条富小路の善法坊、御弟尋有僧都の住坊等に居られたようです。
京でのご生活は、関東の門弟からの喜捨によって支えられ、大抵は200文300文が通例だったようですが、時には5貫文もあったようです。1貫文は米一石に当たるようですから、4万円ぐらいでしょう。ですから、聖人は案外豊かであったという人もありますが、何分にも人々の志ですからいつも十分ではなかったでしょう。
大切にされていた写本『唯信鈔』の綴じ目を外され、紙の折り目を裏返して『涅槃経』が書き写されています。これは重要文化財として本山に残っていますが、紙の様子や、筆の穂先の切れ具合からも不自由な暮らしの中にあって、なお先達の教えに対する熱情がうかがえます。
また、関東の弟子たちの京への来訪や、質問状を大変喜んでみえました。
「なお覚束なきことあらば今日まで生きて候へばわざともこれへたづねたまふべし」
「明教房の上られて候ことありがたきことに候」
「いのち候はば必ずかならず上らせ給うべし」とか、聖人のお返事の末尾には
「またまた追て申すべく候」
「またたよりにて仰せたまふべし」
「何事も何事もまたまた申すべく候」
などのお言葉が記されており、遠く離れた門弟への暖かいお姿の中に「お念仏申さるべし」とのお心が珠玉のように溢れています。

第24回 悲喜を越えて念仏往生

もと「板敷山弁円」と呼ばれ、聖人を襲った明法房がその後改心して弟子となり、ご信心を頂き、お念仏を歓ぶ人となりましたが、聖人80歳のとき、明法房がお念仏の歓びの中で往生したことをお聞きになり「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげて・・・めでたきことにてさふらへ」とお歓びになりました。
また関東へ派遣された、長男慈信房は「深夜父に教えを受けた」「念仏はしぼんだ花だ」等といって教団を乱し始めました。それを知られた聖人は我が子の、法を誹謗する振舞を見て「いまはおやということあるべからず。ことおもうことおもいきりたり」と涙を流しながら義絶状をお書きになりました。お念仏の教え護持のため厳しい裁きをされた聖人の眼に宿る涙にはどんな想いがあったのでしょう。
こんな中でも、85歳のときは「目もみえず候、なにごともみなわすれて候」と言われながら、なおまだ筆を運ばれていました。
90歳の頃、弟子の有阿弥陀仏に対して「としきはまりて」とか「さだめてさきだちて往生」し「浄土にてかならずかならずまちまいらせ候」とご心境を語られ、「かならずかならず」と有阿弥陀仏にお念仏の相続をねんごろに導かれています。
いよいよ聖人御不例の報に専信房が上洛、顕智上人と二人で聖人のご臨終をお世話されました。時に弘長2年11月28日(1262年)、御年90歳で仏の本願に生き抜かれた聖人は浄土に御往生されました。

南無阿弥陀仏

第25回 親鸞聖人のご臨終

人間としてこの世に生まれてきたからには、いつの日か、ある日例外なく突然死ななければなりません。人の死については昨日も聞き、今日も見聞きしているのですが、死をほんとうに自分のこととしてとらえることは難しいようです。
親鸞聖人の臨終はいかがだったのでしょうか。
聖人は晩年、京都から関東の弟子たちに往生浄土が近づいたことについてお便りをしてみえます。現代の人に最もわかりやすいのが、高田派の「親鸞伝絵(でんね)」や本願寺派の「御伝鈔(ごでんしょう)」でしょう。
それらを要約し意訳してその内容を紹介しましょう。
聖人は弘長2年(1262年)いささか、いつもと違って健康がすぐれなくなられ、それからは、口に世間のことなどを話さず、余分なことを語らず、ただ、仏恩の深いことだけを語られ、もっぱら念仏称名の声がたえることなく、11月28日のお昼過ぎ、ついに亡くなられました。御歳90歳でしたと記録されています。
ご臨終の枕辺には数少ない直弟と末娘の覚信尼さま、次弟の尋有さまがおられたぐらいのさみしく静かな場であったと思われます。
さて私たち真宗のみ教えを心の糧として生きる者は、この聖人のご生涯をしのび、ますます聞法の道に精進して参りましょう。

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