専修寺について
ABOUT

真宗高田派本山 専修寺の歩み

親鸞聖人は関東各地を御教化中に、明星天子の夢のお告げを得て、54歳のとき栃木県真岡市高田の地に一宇を建立し、専修念仏の根本道場とせられ(後に専修寺 本寺と称します)ました。ご本尊には、長野の善光寺からお迎えした一光三尊佛をご安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏上人が管理に当たられました。ここを中心とした教団は、関東各地の檀信徒の中で最も有力な教団となり、京都へお帰りになった聖人からは、しばしば自筆のお手紙や、ご自分で書き写された書物などが送られ、関東の門弟及び檀信徒の御教化にもますます取り組まれておりました。

その後、真仏上人を中心とした関東の門弟、檀信徒の教団を高田教団と呼ぶようになり、そして次第に発展し、専修寺は本寺と呼ばれ全国的に崇敬を集めるようになりましたが、それを一段と飛躍させたのが第10世真慧上人で、東海、北陸方面に教化を拡げると共に、朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所ともなりました。一身田の専修寺はその真慧上人が伊勢国内の中心寺院として建てられたものでしたが、関東の本寺が兵火によって炎上したため、歴代上人が一身田に 居住されるようになって、ここが本山として定着しました。

一身田専修寺の伽藍は2度の火災に遭いましたが、りっぱに再建され、住持には皇族をお迎えして、門徒の崇敬はますます高まりました。数多い親鸞聖人のご真筆類は、今も大切に伝持され、教団の誇りとなっています。

高田派歴代上人

開山親鸞
上人名 元号 西暦 高田派略年表
開山親鸞 承安 3 1173 (1歳)親鸞聖人誕生。
養和 元 1181 (9歳)慈円の坊舎にて出家し、範宴少納言公と号する。
寿永 元 1182 (10歳)恵信尼公誕生。
建仁 元 1201 (29歳)叡山を下り、六角堂に参籠し、聖徳太子の示現にあずかり、「行者宿報設女犯云々」の偈文を教えられ、吉水に法然上人をたずねてその門に入る。
元久 元 1204 (32歳)法然上人七箇条制誡を門弟に示し、親鸞聖人もこれに著名する。
元久 2 1205 (33歳)法然上人より『選擇集』の書写と真影の図画を許され、上人がこれに銘文を書く。
承元 元 1207 (35歳)専修念仏が弾圧され、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となる。
承元 5 1211 (39歳)流罪御赦免。この年3/3、息男信蓮房誕生。
健保 2 1214 (42歳)上野国佐貫で三部経の千部読誦を始め、思いかえして中止し、常陸国へ赴く。
これより関東地方の教化が始まる。
元仁 元 1224 (52歳)このころ『教行信証』の撰述が進行するか。
嘉禄 2 1226 (54歳)下野国高田に専修寺を創建すると伝える。
寛喜 3 1231 (59歳)病臥し、自力への執着を反省する。
嘉禎 元 1235 (63歳)このころ帰路か。
宝治 2 1248 (76歳)「浄土和讃」「浄土高僧和讃」を撰述する。
建長 7 1255 (83歳) 画工朝円に肖像画を作らせ、専信房に『教行信証』を書写させる。
同 12/10 夜、五条西洞院の住房火災にあう。
建長 8 1256 (84歳)5/29、子息善鸞を義絶し、これを門弟に通知する。この前後、門弟たちとの書簡の往復が多い。
康元 2 1257 (85歳)このころ『西方指南抄』などの典籍を多く書写する。
正嘉 2 1258 (86歳)自然法爾御書を顕智上人に口述筆記させる。
弘長 2 1262 (90歳)11/28入滅。
第2世 真仏上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第2世 真仏 康元 元 1256 10/13 真仏・顕智両上人上洛。途中、三河矢作薬師寺にて念仏を始める(三河念仏相承日記)。
正嘉 2 1258 3/8 示寂(50歳)。
第3世 顕智上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第3世 顕智 建長 8 1256 京都より下向の途中、三河国権守(出家の後、円善房)のもとに逗留して念仏をすすめる(三河念相承日記)。
正嘉 元 1257 三河国平田に道場を建て、人々を教化する(同上)。
弘長 2 1262 11/29 親鸞聖人の葬送を行う(高田本教行信証奥書)。
文永 9 1272 冬 大谷廟堂建立に際し、聖人影像の造立に尽力する(文書10号)。
建治 3 1277 11/7 覚信尼より大谷廟堂敷地寄進状を送られる。
弘安 3 1280 11/11 信海らと連署して、大谷廟堂の念仏衆を督励する(本願寺文書)。
弘安 5 1282 11月 四天王寺に参詣し、聖徳太子の御袈裟の断片などを得る(上人自筆記録)。
嘉元 3 1305 7/27 善鸞義絶状を書写する(義絶状奥書)。
延慶 2 1309 7/19 これより先、覚如と唯善とは大谷廟堂の管理をめぐって対立していたが、この日、青蓮院の判決が出され、唯善はこれを不服として、影像と遺骨を持って関東へ逃げる(存覚一期記)。
同 7/26 青蓮院の指令を受けた顕智上人らは大谷廟堂の復旧に着手し、影像を造り始める(文書10号)。
延慶 3 1310 7/4 示寂(85歳)。
第4世 専空上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第4世 専空 延慶 2 1309 7/8 顕智上人より『見聞』(浄土の文類)を授与される(『見聞』奥書)。
正和 元 1312 秋 真仏上人の門弟法智は、大谷廟堂に掲げようとした「専修寺」の額を関東へ持ち帰る(存覚一期記)。のちこれを下野高田の如来堂に掲げたか。
暦応 元 1338 11月 大谷廟堂が前々年の兵乱により焼失したので、専空上人が三十六貫文をもって買得した堂を移築する(在覚一期記)。
康永 2 1343 12/18 示寂(52歳)。
第5世 定専上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第5世 定専 貞和 5 1349 7/22 『後世語聞書』を書写する(同書奥書)。
文和 4 1355 1/28 下野国高田如来堂の萱葺替料足を募財する(文章11号)。
不明 大谷廟堂が影像を脇壇へ移そうとするのを阻止する(文書13号)。
応安 2 1369 7/11 示寂(40歳)。
第6世 空仏上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第6世 空仏 応安 2 1369 11/27 祐朝なる者、如来堂の堂職を空仏上人に安堵する(文章12号)。
康暦 2 1380 4/14 示寂(67歳)。
第7世 順証上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第7世 順証 不明 11/20 大谷廟堂の寺院化を阻止しようと諸国の門徒にはかる(文書13号)。
明徳 元 1390 6/16 示寂(60歳)。
第8世 定順上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第8世 定順 応永 20 1413 11月 四天王寺と中宮寺へ参詣し、太子の御衾のきれと天寿国曼陀羅の断片を得る。(上人自筆記録)
康正 3 1457 1/28 示寂(73歳)(御遺骨包紙墨書)。
第9世 定顕上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第9世 定顕 寛正 5 1464 5/24 示寂(49歳)(御遺骨包紙墨書)。
第10世 真慧上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第10世 真慧
(中興)
長禄 3 1459 真慧上人、下野国高田を出て諸国を化導し、近江国坂本の妙林院に入るという(正統伝後集)。
寛正 元 1460 伊勢国各地を教化するという(正統伝後集)。
寛正 6 1465 7月 比叡山に対し、専修寺門流は無碍光流とは全く別個であることを陳述し、その承認を得る(文書15~19号)。このときその証拠に阿弥陀如来立像(現如来堂本尊)を与えられるという(証拠如来縁起)。
文明 4 1472 2/20 『顕正流義鈔』を撰述し、蓮如上人に対し論争を挑む(同書奥書)。
文明 6 1474 9月 一身田に建立の寺に対し、宇都宮正綱より「無量壽院」の名前を与えられる(文書21号)。この年加賀国に一向一揆が起こる。
文明 9 1477 6/9 後土御門天皇綸旨が下付され、専修寺住持が認証される(文書28号)。
同 7/18 尾張国星崎道場へ阿弥陀如来木像を下付する(名古屋市海隣寺文書)。
文明 10 1478 3/12 専修寺を皇室の御祈願所とする旨の綸旨が下付され、これによって真慧上人への「上人号」も勅許される。(文書29号)
同 3/28 上の綸旨を受けて、室町幕府も専修寺住持職を安堵する(文書30号)。
長享 元 1478 7/26 「尊菊」なる者、専修寺の寺建立のため、葉室家より敷地の寄進と買得とを受ける(文書31・32号)。
同 10/12 法橋真慧を法印に叙する旨の口宣案が下される(文書33号)。
長享 2 1488 6/9 加賀国に一向一揆が起こり、高田門徒は守護富樫政親に加勢して本願寺門徒と戦うが、政親は敗死し、高田門徒は加賀国から去る。 
明応 3 1494 2/28 『十六問答記』を著述する(岡崎市満性寺自筆本奥書)。
同 3/18 宇都宮成綱、専修寺領を安堵する(文書36号)。
明応 5 1496 2/4 高田専修寺のすべてを阿児丸法名良真に譲渡する旨、越前国勝鬘寺において譲状を書く(法雲寺文書二号)。
明応 9 1500 8/23 伊勢国河北道場(現久善寺)へ自筆九字名号、御書、野袈裟、棺腰巻を与える(河北道場建立旨趣)。このころより、伊勢国の道場へしきりに野袈裟を書き与える。
文亀 2 1502 8/27 専修寺住持職を応真上人(13歳)に譲る。応真上人は参内して後柏原天皇に拝謁し、綸旨を賜わる。(文書42・43号)
同 11/8 応真上人、青蓮院へ祗候し、勅筆の観無量壽経を与えられる。
永正 元 1504 10/8 御書「永正規則」を発し、門弟たちの心構えを誡める(真慧御書)。
同 10/18 御書を集成して書き与える(浄土以筆相承抄)。
永正 3 1506 7月 加賀の本願寺門徒が越前へ攻め入ったので、朝倉貞景と高田門徒はこれを迎え打って破る(朝倉始末記その他)。
永正 7 1510 6/14 これより先、応真上人が専修寺住持職を辞退したため、常磐井宮家より付弟を迎える(法雲寺文書、海隣寺文書ほか)(永正8年ともいう)。
永正 9 1512 10/22 示寂(79歳)。
第11世 応真上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第11世 応真 永正 9 1512 11/24 後柏原天皇、真智上人に対し専修寺住持職を承認する(法雲寺文書)。
永正 10 1513 2/23 後柏原天皇、応真上人に対し、専修寺門流の正統を承認する(文書51号)。
同 12/26 後柏原天皇、応真上人への綸旨を棄破し、重ねて真智上人に専修寺住持職を承認。また真智上人に末代紫衣を着し参内して宝祚延長を祈ることを命じる(法雲寺文書)。
永正 11 1514 10/14 このころ、真智上人下野へ下向。宇都宮孝綱、専修寺に若宮郷簗内を寄進(法雲寺文書)。
永正 17 1520 9/17 室町幕府、応真上人に対し重ねて専修寺住持職を承認する(文書59号)。
永正 18 1521 6/27 後柏原天皇、応真上人に対し専修寺下野流の相続を重ねて承認する(文書61号)。
大永 2 1522 8月 真智上人、応真上人と和解し請文を尊乗坊へ差し出し退隠(文書63号・系譜)。
大永 5 1525 応真上人、小松中山寺で越年(聞書)。
大永 6 1526 9/3 山門東塔院東谷彼岸所衆、応真上人の退隠と真智上人の相続を議す(法雲寺文書)。
享禄 2 1529 9/8 後奈良天皇、応真上人に対し専修寺住持職を承認する(文書77号)。
享禄 4 1531 応真上人、近江甲賀駒月の峯庵に滞在(聞書)。
天文 元 1532 応真上人、近江長光寺に移る(聞書)。
天文 2 1533 3/8 このころ、応真上人、京都東山殿に滞在。この日、伊勢の僧衆ら上京(聞書)。
天文 4 1535 飛鳥井雅綱三男(堯慧上人)、入室(系譜)。
同 応真上人、京都柳原に寺を建立する(聞書)。
天文5 1536 9/15 延暦寺、京都の日蓮党類の発向につき、専修寺に着陣を催促する(文書82号)。
天文6 1537 5/21 応真上人、堯慧上人に譲状を書く。5/23 再び書く(文書84号)。
同 5/25 応真上人、京都一条柳原で遷化(48歳)(聞書)。
第12世 堯慧上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第12世 堯慧 天文 8 1539 6/13 室町幕府、真智上人に対し伊勢一身田無量寿寺住持職を承認する(法雲寺文書)。
同 12月 堯成、『顕正流義鈔』を写す(中山寺所蔵奥書)。
天文 10 1541 9/18 長野稙藤、伊勢安濃・栗真郡門徒の坂本への出仕を禁じる(法雲寺文書)。
天文 11 1542 11/13 堯慧上人、近江坂本を立ち、11/16に北黒田誓蔵坊に赴く(聞書)。
天文 12 1543 3/5 室町幕府、真智上人に対し再び一身田無量寿寺住持職を承認する(法雲寺文書)。
同 「高田山専修寺勧進帳」なる(文書92号)。
天文 13 1544 6/13 日永千部会。6/23 結願(聞書)。
同 12/21 堯慧上人、伊勢北黒田から中川原へ移る(聞書)。
同 12/21 伊勢安濃郡乙部兵庫頭源藤政の息女、堯慧上人のもとへ入輿(聞書)。
天文 16 1547 7/27 伊勢国司北畠氏、専修寺門徒は本願寺門徒と各別である旨を承認(文書93号)。
天文 17 1548 2/5 堯慧上人、伊勢中川原から一身田に入寺する(聞書)。
天文 21 1552 4/6 一身田千部会。4/15 結願(聞書)。
同 10/15 室町幕府、葉室家と相論の山城国桂西荘の領知遂行につき奉書を下す(文書96・97号)。
永禄 元 1558 9/8 正親町天皇、堯慧上人に対し専修寺住持職を承認する(文書120号)。
永禄 2 1559 11/1 満性寺寂玄、『聖法輪蔵』を写す(満性寺所蔵奥書)。
永禄 3 1560 2/25 故応真上人、権僧正を追贈される(文書127号)。
同 2/27 堯慧上人、権僧正に昇任(文書128号)。
同 4月 本願寺、専修寺の極官を召し返すよう室町幕府へ訴える。のち本願寺が敗訴(文書133号)。
同 6/12 室町幕府、専修寺住持職ならび諸末寺等につき従来通りの旨を承認(文書144号)。
永禄 4 1561 6/25 越前朝倉氏、越前四ヵ寺へ堯慧上人に従うことを命じる(文書165号)。
同 12/23 室町幕府、越後の朝倉義景に対し真智上人の訴えを退けることを命じる。
天正 元 1573 9/7 織田信長の臣前波長俊、専修寺の末寺門弟に対し、真智上人へ馳走することを命じる(法雲寺文書)。
同 10月 織田信長、一身田無量寿寺ならびに門前に禁制を下す(文書186号)。
同 真智上人、越前坂井郡熊坂村に専修寺を建てる。同八年完成(系譜)。
天正 2 1574 7/20 織田信長、越前における軍功により専修寺へ知行宛行を約す(法雲寺文書)。
同 11/28 門跡号を勅許される(文書187号)。
天正 3 1575 8/25 織田信長の臣菅屋玖右衛門尉長行、越前における専修寺門徒の還住を促す(法雲寺文書)。
同 9月 織田信長、熊坂専修寺へ禁制を下す(法雲寺文書)。
天正 4 1576 2/17 柴田勝家、越前専修寺に禁制を下す(法雲寺文書)。
天正 7 1579 10/14 真智上人、真空を後継者とする(法雲寺文書)。
第13世 堯真上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第13世 堯真 天正 8 1580 4/5 一身田御堂焼失(明日香家年譜)。
同 5/25 正親町天皇、堯応(堯真)上人の専修寺住持職を承認(文書195号)。
天正 9 1581 10/21 日永千部会。10月 晦結願(聞書)。
天正 10 1582 2/11 一身田御堂釿始め。3/11 石築。3/15 立柱(聞書)。
同 5/3 堯慧上人、僧正から大僧正に昇任(文書202号)。
天正 11 1583 6/12 豊臣秀吉の臣丹羽長秀、越前専修寺および同末寺居屋敷などの諸役を免除する(法雲寺文書)。
天正 12 1584 5/3 徳川家康、一身田無量寿寺に禁制を下す(文書203号)。
同 6/26 豊臣秀吉、下野専修寺住持職などにつき禁制を下す(文書205号)。
同 7/13 正親町天皇、堯真上人に専修寺住持職の相続と越前勝鬘寺等の進退を命じる(文書206号)。
天正 13 1585 7/4 真智上人、遷化(82歳)(系譜)。
同 7/13 正親町天皇、堯真上人に専修寺住持職の相続と越前勝鬘寺等の進退を命じる(文書206号)。
天正 13 1585 7/25 豊臣秀吉、堯真上人に専修寺住持職の相続と越前勝鬘寺等の進退を承認(文書209号)。
天正 15 1587 4/28 徳川家康、堯真上人に対し分国中の末寺門徒、とくに明眼寺等の進退を承認(文書216号)。
同 5/11 三河明眼寺・満性寺、三河城主に対し一身田への出仕を断る(満性寺文書)。
天正 16 1588 9/11 一身田千部会。9/20 結願(聞書)。
天正 17 1589 11/7 蒲生氏郷、専修寺の末寺道場の諸役などを永代免除する(文書222号)。
天正 18 1590 7月 豊臣秀吉、下野高田専修寺に禁制を下す(法雲寺文書)。
文禄 5 1596 7/29 豊臣秀吉、専修寺へ伊勢安芸郡一身田村内三百五十石を寄進する(文書225号)。
同 閏7/12 堯真上人息女鶴子(妙孝院栄真)、伏見城で没(系譜)。
慶長 3 1598 9月 小早川秀秋、専修寺の末寺道場の寺内ならびに諸役を永代免除する(文書229号)。
慶長 14 1609 1/21 堯慧上人、遷化(83歳)(系譜)。
元和 5 1619 9/20 堯真上人、遷化(71歳)(系譜)。
第14世 堯秀上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第14世 堯秀 寛永 11 1634 7/20 江戸において越前熊坂専修寺空恵と対決する。勝訴(文書263号)。
寛永 13 1636 堯秀上人、大僧正となる(正統伝後集)。
寛永 15 1638 7/25 一身田の木像親鸞聖人御影を下野高田へ移し入仏する(文書269号)。
同 7/26 下野高田一光三尊仏開帳。7/28 結願(文書269号)。
寛永 16 1639 5月 慈智院本堂(現存する一身田最古の建築)建つ(鬼瓦銘)。
寛永 18 1641 1/11 堯秀上人、僧正から大僧正に昇任(文書275号)。
同 堯秀上人、堯朝上人に職を譲る(系譜)。
第15世 堯朝上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第15世 堯朝 寛永 21 1644 10/15 堯朝上人、江戸にて幕府より堯秀上人の大僧正昇任を叱責される。翌年8/27ようやく宥免される(徳川実紀)。
正保 2 1645 1/23 一身田本山火災、御堂・客殿など全焼(明日香家文書・系譜)。
正保 3 1646 8/22 堯朝上人、江戸へ下向し遷化(32歳)(峯の枝折・系譜・高田史料)。
堯秀再住 同 堯秀上人、再び寺務をとる(系譜)。
慶安 元 1648 2/25 左大臣花山院定好第四子金丸(堯円上人)入室(系譜)。
同 8/17 徳川家光、下野高田専修寺に二十石を寄進(史要)。
慶安 5 1652 7/3 堯朝上人七回忌にあたり、高松院の発願により専修寺の洪鐘を鋳る(鐘銘・系譜)。
第16世 堯円上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第16世 堯円 承応 3 1654 2/28 堯円上人、得度。継職(系譜)。
明暦 元 1655 8月 南会津の自源寺、前沢寺・光明寺など九ヵ寺帰参(文書299号)。
明暦 3 1657 『御書』を開板(専修寺所蔵識語)。
万治 元 1658 冬 藤堂高次、一身田・大古曽田、窪田三村のうち三万一千百六十三歩を寄進し、境内および門外の道路とする(明日香家文書・窪田御山御再興記・系譜)。
万治 3 1660 3/21 堯朝上人室糸姫(高松院・藤堂高虎長女)遷化(52歳)(系譜・高田史料)。
寛文 元 1661 8月 宗祖四百回忌に際し報恩講御書を製す(史要)。
寛文 3 1663 3/25 真教・専誉父子、一身田専修寺からの訴えにより近江分部氏へ預けられる。以降、越前専修寺、退転する(文書310号)。
寛文 6 1666 一身田御堂(現御影堂)建立(供養願文・峯の枝折)。
同 12/19 堯秀上人、遷化(85歳)(系譜・系図纂要)。
寛文 10 1670 4月 彰見寺普門、『教行信証師資発覆鈔』序文二巻を著わす(第二巻奥書 )。
同 9/19 一身田御堂慶讃供養法会。9/28 結願(系譜)。
寛文 12 1672 初めて安居を開(史要)。
延宝 4 1676 11/3 堯円上人、僧正から大僧正に昇任(系譜)。
延宝 8 1680 3月 講千部会を行う。以降毎年恒例となる(系譜)。
貞享 2 1685 2/28 本誓寺慧雲、『教行信証鈔』を著わす。翌年7月刊行(奥書・刊記)。
元禄 10 1697 5/23 下野高田において一光三尊仏を開帳。模刻像を作る(高田史料)。
同 10/15 伏見宮貞致親王第五子勝宮(円猷上人)入室(系譜)。
元禄 14 1701 下野高田如来堂再建(史要)。
宝永 元 1704 9/19 山門落慶供養。9/28 結願(瓦銘・明日香家文書)。
宝永 7 1710 11/23 堯円上人、退隠。円猷上人継職(系譜)。
第17世 円猷上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第17世 円猷 正徳 元 1711 9/18 開山聖人四百五十回忌法事。9/28 結願(峯の枝折)。
正徳 5 1715 1/18 五天良空、『親鸞聖人正統伝』を著わす(自序)。
享保 元 1716 7/27 堯円上人、遷化(76歳)(系譜)。
享保 2 1717 7月 五天良空撰『親鸞聖人正統伝』開板(刊記)。
享保 6 1721 春 如来堂斧始め(如来堂御建立録)。
同 5月 五天良空撰『正統伝後集』開板(刊記)。
享保 12 1727 閏1/4 万人講の勧募を始める(如来堂御建立録)。
享保 13 1728 8/24 下野高田において、一光三尊仏を開帳。10/15 結願(系譜)。
享保 14 1729 7/10 江戸唯念寺にて一光三尊仏を開帳。七十日間。ついで閏9月 一身田本山において一光三尊仏を開帳。10/3 結願。以降、十七年ごとに開帳(系譜・高田史料)。
享保 18 1733 冬 『親鸞聖人正明伝』開板(刊記)。
元文 3 1738 3/11 京都本誓寺にて証拠如来を開帳。六十日間(高田史料)。
元文 5 1740 11月晦 本山山内の各坊を寺号に改める(高田史料)。
寛保 3 1743 2/8 学寮に初めて監寮を置く(史要)。
同 12月 このころ、下野高田御影堂を建立(向拝彫刻墨書銘)。
延享 元 1744 3/24 如来堂上棟(如来堂御建立録)。
延享 2 1745 5/17 桜町天皇、一光三尊仏を宮中に迎え供養。ついで模刻する(系譜)。
同 12/5 夜、火災。内仏殿・書院・対面所など焼失(系譜)。
寛延 元 1748 7/18 如来堂遷仏(本尊裏書・如来堂御建立録)。
寛延 3 1750 9月 如来堂において初めて永代経法会を行う(御堂日録・系譜)。
寛延 4 1751 3/15 宮内の模刻一光三尊仏および供具を下賜される(系譜)。
宝暦 3 1753 1/2 円猷上人、遷化(60歳)(系譜)。
第18世 円遵上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第18世 円遵 同 1/8 円猷上人室常子女王、落飾して紫雲光院宮と号し、寺務をとる(系譜)。
宝暦 8 1758 3/20 円遵上人(有栖川宮職仁親王息)得度。継職(系譜・史要)。
宝暦 10 1760 このころ、茶所・釘貫門建つ(様式・御堂日録)。
宝暦 11 1761 3/18 親鸞聖人五百年大法会。3/28 結願(高田史料)。
同 御廟拝堂・対面所なる(高田史料)。
明和 2 1765 9月下旬 円遵上人撰『高田三祖伝』なる(真宗典籍刊行史稿)。
安永 3 1774 8月 宗名一件起こり、浄土真宗と公称することを幕府に請う(史要)。
天明 3 1783 12/28 火災。両御堂を残し、対面所・殿舎など焼失(御堂日録・系譜)。
天明 6 1786 閏10/2 対面所再建 (系譜・御堂日録)。
寛政 8 1796 8/21 勧学堂慶讃法会(史要)。
寛政 12 1800 11/6 通天橋上棟(棟礼・系譜)。
文化8 1811 3/10 円遵上人、退隠。円祥上人(有栖川宮織仁親王息)継職(系譜)。
第19世 円祥上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第19世 円祥 同 3/18 宗祖五百五十回忌法会。3/28 結願(系譜・高田史料)。
文政 2 1819 10/22 円遵上人、遷化(74歳)(系譜)。
文政 6 1823 5/25 一身田本山にて宗祖等身御影を開帳。6/10 結願(高田史料)。
文政 12 1829 2/22 一身田太子堂本尊開眼(高田史料)。
天保 3 1832 4月 下野高田太子堂再建(高田史料)。
同 6月 有栖川宮韶仁親王養子(実は円祥上人息)学宮(円禧上人)入室(系譜)。
天保 6 1835 6月 下野高田如来堂銅葺きなる(高田史料)。
天保 8 1837 11/21 円祥上人、遷化(50歳)(系譜)。
第20世 円禧上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第20世 円禧 天保 15 1844 4/10 唐門(如来堂門)上棟(棟札写・系譜)。
嘉永 7 1854 2/5 有栖川宮幟仁親王第三子(実は近衛忠凞息)規宮(円禔上人)入室(史要)。
安政 4 1857 5月 伊勢南北の末寺、行信の問題につき争乱。学寮三役、罷免される(史要)。
文久 元 1861 3/18 宗祖六百回忌法会。3/28 結願(系譜・高田史料)。
同 5/8 円禧上人、遷化(45歳)(系譜)。
第21世 堯熙上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第21世 堯煕 慶応 元 1865 11/23 行信の大法乱起こる(史要)。
明治 元 1868 7月 東西本願寺・仏光寺・錦織寺と勤王護法の盟約を結ぶ(史要)。
明治 4 1871 3月 勧学堂を貫練場と改める(史要・木馬28号)。
同 7月 寺領三百七十石を奉還。家禄を与えられる(史要)。
同 執事所を置く(高田史料)。
明治 5 1872 3/7 円禔上人、華族となる(史要)。
同 3/12 真宗を公称する。(高田史料)
同 8/25 経蔵再建(高田史料)。
同 10月 円禔上人、家号常磐井を名乗り、名を堯熙と改める(史要)。
明治 7 1874 宗祖命日を太陽暦に換算し、1/16と定める(高田史料)。
明治 8 1875 5月 東西本願寺、錦織寺とともに大教院から分離、布教の自由を得る(史要)。
同 6月 執事所を寺務所と改める(史要)。
明治 9 1876 5月 貫練場を貫練教校と改称する(史要・木馬28号)。
同 11/28 宗祖に諡号「見真」を追贈される(史要)。
明治 13 1880 4/18 勅額奉掲式を行う(高田史料)。
同 7月 明治天皇行幸、賜春館を行在所とする(史要)。
明治 14 1881 専修寺派を改め高田派と公称する(史要)。
明治 16 1883 11月 特選公選議員による全国末寺会議を開く(高田史料)。
明治 18 1885 2/25 近衛忠房第三子鶴松(堯猷上人)入室(史要)。
明治 19 1886 11/16 鶴松君、ドイツ留学のため横浜から出発(史要)。
明治 20 1887 2/17 宗制・寺法を定める(史要・高田史料)。
明治 21 1888 5/21 初めて降誕会を教校に開く(高田史料)。
明治 24 1891 開明社を設立(高田の寺々)。
明治 28 1895 9/7 貫練教校を真宗勧学院に改める(高田専門学校一覧・高田史料)。
同 7/24 鶴松君、横浜着。8/3 本山へ帰る(史要)。
明治 28 1895 10/25 鶴松君、得度。名を堯猷と改める(史要)。
明治 45 1912 4/6 宗祖六百五十回大遠忌法要。4/16 結願(高田史料)。
大正 2 1913 2/25 堯熙上人、退隠。堯猷上人、継職(高田史料)。
第22世 堯猷上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第22世 堯猷 大正 4 1915 御大典記念事業として、仏教日曜学校の設立を奨励する(高田の寺々)。
大正 8 1919 5/23 堯熙上人、遷化(76歳)(高田史料)。
同 十万人講を始める(高田の寺々)。
大正 10 1921 老人施設高田慈光院開設(高田の寺々)。
大正 12 1923 9/1 関東大震災。東京・横浜別院など焼失。以降、救災活動を大いに行う(高田史料)。
大正 15 1926 4/11 立教開宗七百年記念慶讃法要。4/15 結願(高田史料)。
昭和 3 1928 12/12 高田幼稚園を開設(高田史料)。
昭和 7 1932 『高田学報』創刊(同書創刊号奥付)。
昭和 8 1933 12/27 真宗勧学院高等科を高田専門学校と改称(高田専門学校一覧)。
昭和 9 1934 専精学舎(三重少年学院の前身)を創設(高田の寺々)。
昭和 26 1951 堯猷上人、遷化(81歳)(高田の寺々)。
第23世 堯祺上人
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第23世 堯祺 同 教育財団から学校法人に改め高田学苑が発足(高田学苑資料)。
同 高田専門学校を廃止する(木馬28号)。
昭和 37 1962 宗祖七百回遠忌法要を修す。記念事業として宝物館を建設(高田の寺々)。
昭和 40 1965 霊名堂を撤去し、納骨堂を建てる(高田の寺々)。
昭和 41 1966 高田短期大学発足(高田学苑資料)。
昭和 43 1968 特別養護老人ホーム高田光寿園を開設(高田の寺々)。
昭和 48 1973 親鸞聖人誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要。記念事業として前年、高田青少年会館を完成(高田の寺々)。
昭和 50 1975 第二納骨堂を建てる(高田の寺々)。
昭和 58 1983 10月 如来堂の修理を始める。平成2年 3/31完成(高田本山の如来堂)。
昭和 60 1985 10/1 野州高田本寺御影堂の修理を始める。平成元年 9/30完成(野州高田本寺の御影堂)。
平成 3 1991 5/10~15 如来堂昭和大修理落成慶讃法要。
平成 4 1992 5/8 堯祺上人遷化(86歳)。
第24世 鸞猷前法主
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第24世 鸞猷 平成 7 1995 10/1 山門・鐘樓修理工事が完了(工期2年2月、総工費4億1,130万円)
平成 8 1996 4/1〜5 鸞猷法主伝灯奉告法会勤修。
平成 9 1997 7/1 新宗務院完成(工期1年、総工費4億円)。
平成 10 1998 4/1〜5 本山専修寺において一光三尊仏の特別開扉始まる。平成12年3月まで一身田にご滞在中、各地でも特別開扉が行われる。
平成 11 1999 3/1 栃木県高田専修寺(本寺)如来堂・総門の修理工事が完了(工期3年3月、総工費3億6,400万円)。
平成 12 2000 1/1 御影堂の平成大修理工事始まる(予定工期8年、工費29億5,000万円)。
平成 20 2008 3/31 御影堂の平成大修理完了。
平成 22 2010 5/13〜17 御影堂大修理落慶大法会。
平成 24 2012 4/6〜16 開山聖人七百五十回遠忌報恩大法会。
平成 25 2013 8/7 山門・唐門・通天橋・御廟拝堂・御廟唐門及び透塀・鐘楼・茶所・太鼓門・大玄関・対面所・賜春館 附 棟札(通天橋附) 棟札(対面所附) 骨堂(御廟唐門及び透塀附)が国の重要文化財に指定。
第25世 慈祥法主
上人名 元号 西暦 高田派略年表
第25世 慈祥 平成 25 2013 10/27 法主傳燈式。
平成 26 2014 4/3〜5 一光三尊佛慶讃法会厳修(平成28年3月末までご滞在)。
平成 28 2016 3/25〜27 第二十五世伝灯奉告法会厳修。
平成 28 2016 3/28〜30 一光三尊佛御帰山法会厳修。
平成 29 2017 11/28 御影堂・如来堂が三重県初の国宝(建造物)に指定。
[出典略称]
文書・・・真宗史料集成第四巻所収専修寺文書
門書・・・代々上人聞書
系譜・・・専修寺門室系譜
史要・・・専修寺史要
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