親鸞聖人のご生涯をとおして

 お念仏に無縁の関東の地に、念仏の種をまかれた親鸞聖人の教えは、高田門徒をはじめ各地に大きく広がりました。
しかし、関東に入られて20年、63歳頃この地を離れる決心をされました。少数の弟子をともなわれ、行脚の足を京都に向けながら、東海道の旅を続けられたのです。天下の険で有名な箱根にさしかかった時のことです。供に従ってきた性信房にこうおっしゃいました。「私が帰洛後どんな妨げがあるかも知れぬ。どうか私にかわって関東に留まり、門徒衆を教化してくれないか。」突然の仰せに当惑する性信房に、親鸞聖人は次の歌を示されました。

  病む子をば あずけて帰る旅の空
  心はここに 残りこそすれ

関東の門弟をわが子のように思っておられる聖人のみ心に、性信房はこの大任をお受けし、涙ながらに引き返したのです。
この時、聖人は愛用の笈を与えられたことから、この地は「笈の平」と呼ばれ「親鸞聖人御旧跡 性信房訣別之地」の石碑が歌碑と共に現存しています。
やがて、芦の湖畔、箱根権現にたどり着かれた時には夜も更けていましたが、権現が「わたしの尊敬する客がこの路を通る。丁寧にもてなすように」と、その示現が覚めやらぬ中に聖人が通られました。社人たちは、暖かくもてなし、親鸞聖人は三日三夜参籠、自ら木像を刻み献上されました。この木像は、現在も箱根神社に所蔵されています。こうして、京都への旅が、続けられたのでした。