ひとくち法話

ひとくち法話一覧
1~9話 にんげん 10~15話 三尊仏 16~27話 真宗の教え
28~34話 七高僧 35~44話 高田派 45~69話 親鸞聖人のご生涯
70~83話 お釈迦様のご生涯 84~92話 聖徳太子 93~102話 諸法会
103~110話 四苦八苦 111~122話 こころ 123~137話 真宗のことば
138~141話 迷信 142~147話 感動 148~152話 おまいりの心
153~ 聖人のおことば




ひとくち法話142~147話 ―感動―

第142話 往生(おうじょう)

 「往生(おうじょう)」とは、阿弥陀(あみだ)様の本願力(ほんがんりき)に乗(じょう)じて、凡夫(ぼんぶ)である私が極楽浄土(ごくらくじょうど)に生まれて往(ゆ)くことであります。昔からお説教などで「死ぬと思うな生まれると思え」と説かれてきました。お浄土に生まれるというのは、阿弥陀様と同じ大きな悟(さと)りを得て仏となることです。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、阿弥陀様の誓(ちか)われた念仏往生(ねんぶつおうじょう)の願(がん)(第十八願)によって往生することを真宗(しんしゅう)とされています。それも、死んだ後に往生が決まるのではなく、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫が阿弥陀様のご本願に目覚め気づかせていただいた時に、即ち真実信心(しんじつしんじん)をいただいた時、煩悩のままの私の往生成仏(おうじょうじょうぶつ)が決定(けつじょう)すると説かれています。それを「不退(ふたい)の位(くらい)」とも「等正覚(とうしょうがく)」とも説かれて、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が必ず成仏するのが定まっているのと同じく、この世において必ず成仏することが決定すると説かれています。これを「現生入正定聚(げんしょうにゅうしょうじょうじゅ)」(この世で正しく成仏の定まった集まりに入る)として、親鸞聖人の教えの要となっています。
 ただ一般には「往生」を困って動きのとれないこととして使われています。これは「平家(へいけ)物語」や歌舞伎で有名な弁慶(べんけい)の最後の場面で、弁慶が全身に矢を受けて、眼を見開いて立ったまま往生し、敵がその姿に一歩も動くことが出来なかったことから来ています。往生が死んで浄土に生まれることから、弁慶の死を意味するのですが、動きがとれないとか、困惑(こんわく)するというのは派生(はせい)的な意味で、「往生」の正しい意味ではありません。
 この煩悩のままの私が、浄土に生まれて仏となるというのは、これにまさる大きな感動はありません。
  念仏往生の願により  等正覚にいたる人
  すなわち弥勒(みろく)におなじくて  大般涅槃(だいはつねはん)をさとるべし
  『正像末法和讃(しょうぞうまっぽうわさん)第26首』

ひとくち法話No142 ―感動1― より

第143話 回心(えしん)

 回心(えしん)とは、これまでの生き方、生きるよりどころをガラッと転換(てんかん)することです。
 ご自分のことについてはあまり語られなかった親鸞聖人(しんらんしょうにん)が『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』の後序(ごじょ)で、
  「然(しか)るに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄てて、本願(ほんがん)に帰(き)す」と告白されています。
 「雑行を棄てて、本願に帰す」とは、「あれやこれやと自己(じこ)のはからいによる修行(しゅぎょう)を棄(す)てさって、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に帰命(きみょう)する」という意味です。
 9歳で得度(とくど)をされた親鸞聖人は、20年の間、比叡山(ひえいざん)で日々厳しい修業を行われました。しかし煩悩(ぼんのう)を棄てて悟りを開くという自力(じりき)修行では聖人はさとることができず、悩まれた聖人は、聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの六角堂(ろっかくどう)に100日の参籠(さんろう)をされます。その95日目の明け方に、夢の中に救世観音(くぜかんのん)の声を聞かれたのです。その声にみちびかれて聖人は、京の町で念仏の教えを説いておられる法然上人(ほうねんしょうにん)を訪ねられました。それからまた100日の間、雨の日も風の日もどんなことが起ころうとも欠かすことなく、上人の教えを聞かれました。そして、阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願によって、煩悩を断たずに往生(おうじょう)を得(う)ることのできる他力(たりき)の教えにみちびかれたのです。
 このことはいままでの、自力の修行によって煩悩を断ち切って、悟りの境地(きょうち)にいたる仏道(ぶつどう)から、ひたすら弥陀の本願を信じ、お念仏を申すという他力の仏道への大転換(だいてんかん)がなされたということです。これを回心(えしん)といいます。
 この他力の仏道こそ、真宗念仏(しんしゅうねんぶつ)の教えであります。

ひとくち法話No143 ―感動2― より

第144話 「お迎え」ってあるの?(「おむかえ」ってあるの?)

 仏教には、「来迎(らいこう)」という言葉があります。
 来迎とは、自分の力を頼みとし、自分のはからいによって往生(おうじょう)しようと念仏に励(はげ)む人にとって、その人の命がまさに終わろうとするとき〔臨終(りんじゅう)〕に、阿弥陀(あみだ)様が極楽浄土(ごくらくじょうど)へ連れて行ってくださるというもので、よくいう「お迎え」であります。
 このお迎えを頼む人は、臨終(りんじゅう)のときまで往生が定まらないため、それまでは不安と苦悩の日々が続くのです。そのため、古(いにしえ)には臨終を迎えると枕元に阿弥陀様を安置して、その手から五色(ごしき)の糸を引き、その端を自分が握って、確かに浄土へ連れて行ってもらおうとする儀式さえ行われていました。
 ところが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、阿弥陀経の中にあるおことばを、「お念仏をよろこぶ人は、其(そ)の人の命が終ろうとする時まで、阿弥陀様が諸々(もろもろ)の仏様とともにその人をお護(まも)りくださる。」と読み解(と)かれ、さらに「真実信心を得た人は、阿弥陀様のはたらきにより、その信心が定まるときに必ず浄土に往生する身となる。よって臨終を待つこともなければ来迎を頼むこともない。」と仰せられました。
 つまり、お念仏をよろこぶ人は、そのご信心をいただいたときに必ず浄土に往生させていただく身となり、命が終る時まで、つねに阿弥陀様の大悲(だいひ)のはたらきに護られているので、すでにお迎えがあるとか無いとかの問題を離れているのであると親鸞聖人はお示しいただきました。

ひとくち法話No144 ―感動3― より

第145話 成仏(じょうぶつ)〔念仏成仏(ねんぶつじょうぶつ)これ真宗(しんしゅう)〕

 一般には、人が亡くなることを成仏(じょうぶつ)したといいますが、この成仏を他人のことと捉えている限り、感動とは無縁の成仏であります。いまここで、成仏を感動のできごとと受けとるには、"この私が"確かにほとけになると実感することが必要です。
 その求道(ぐどう)のみちを親鸞聖人(しんらんしょうにん)にたずねてみることにしましょう。聖人は、この"ほとけになる(成仏する)こと"を目標にして、比叡山(ひえいざん)で20年という長い間『法華経(ほけきょう)』の教えに従って自力修行に励まれました。しかし修行すればするほど「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念(いちねん)にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」という煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわが身を知らされるばかりでありました。
 そこで聖人は、山を降りて六角堂(ろっかくどう)に籠(こも)り、遂に聖徳太子の夢告(むこく)をうけて、法然上人(ほうねんしょうにん)に出遇われ、『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』の阿弥陀如来の誓願(せいがん)に帰依(きえ)されたのでありました。これが真宗他力の教えであり、教えの要(かなめ)は
「本願を信じ 念仏申さば 成仏する」
というのであります。
 聖人は、このご縁を「いし、瓦、つぶての如(ごと)きわれらが、こがねにかえなさしめられる」ような教えですと喜ばれました。どんなに努力、修行しても、自力では絶対に成仏できない"この私"が、他力念仏の因縁(いんねん)を獲(う)れば、成仏するというのであります。「仏法不思議(ぶっぽうふしぎ)ということは、弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」と。なんという不思議なことでありましょう。ただ感動して慶喜(きょうき)するほかありません。

ひとくち法話No145 ―感動4― より

第146話 出遇いのよろこび(であいのよろこび)

 人生を振り返ってみますと、オギャーと生まれたとき、最初に出会うのは、十月十日(とつきとうか)お腹で育てて下さった母であります。まだ目の見えない私にお乳を含ませ、それからずっと成長を見守ってもらったのです。成長と共に、周囲の方々との出合い、恩師や友達との心の出遇いもあり、私共は支えられ合って生きることによって、自分が完成されてくるのです。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)のご生涯の中で感動という言葉が浮かぶ場面は、法然上人(ほうねんしょうにん)との出遇いによって阿弥陀さまのお誓いに目覚められたことです。
 29歳まで比叡山(ひえいざん)で厳しい修業をされていた親鸞聖人は、ご自身の心の迷いを解決することができず山を降りられ、吉水(よしみず)の法然上人(ほうねんしょうにん)のもとに通い仏法(ぶっぽう)を聴聞(ちょうもん)して、あらゆる衆生(しゅじょう)を救うことができなければ仏にならぬと誓われた阿弥陀さまのご本願に目覚められました。法然上人との出遇いがなければ、決して生死(しょうじ)の迷いの世界から救われることはなかったでしょう。そのときの感動を『教行証(きょうぎょうしょう)』のなかで、「遇(あ)い難(がた)くして今遇(いまあ)うことを得(え)たり」(ご縁がなければお念仏のみ教えと決して出遇うことはありませんでした)と述べられております。
 親鸞聖人の感動は、さかのぼれば、お釈迦(しゃか)さまのお説法(せっぽう)に始まり、七高僧(しちこうそう)の方々によって受け継がれ、法然上人から親鸞聖人のもとへ届けられたものです。さらに平成の今日にいたっても、正しく親鸞聖人のみ教えをそのままにお伝えしておりますのが高田の法灯(ほうとう)でございます。そのみ教えを今、この世に生を受けて出遇わせていただけることを深く受けとめて、常に感謝の心をもって、お念仏の日暮(ひぐ)らしをさせてもらいたいものです。阿弥陀さまのみ教えによって目覚め、お念仏のお育てにあずからせていただくことこそが、正に感動の人生であります。

ひとくち法話No146 ―感動5― より

第147話 踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)

 先日、あるお寺の掲示板(けいじばん)に、「死は必然(ひつぜん)であり、生は驚愕(きょうがく)である。」と書かれていました。生まれた者が死ななければならないことは必然でありましょう。では何故「生は驚愕である」のでしょうか。これは「人身(にんじん)うけがたし、今すでにうく」という教えからも分かりますように、私が無数の生き物の中から人としての生をうけ生きているということは、大変稀有(たいへんけう)なことであって、驚くべき事実であり、大変に有り難い感謝すべきことであるということでしょう。
 さらに、この「生」をこの世に生をうけ生きているというだけでなく、浄土に生まれて仏になるという意味で味わってみますと、これは信心を得て往生成仏(おうじょうじょうぶつ)の決定(けつじょう)することでありますから、単なる驚きではなく、天にも地にも跳び上がってしまうほどの喜びであるとして「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」とお経に説かれています。
 仏教では、この真実信心(しんじつしんじん)に目覚め気付かせていただいた境地(きょうち)を「歓喜地(かんぎじ)」と申します。また本山では、8月の盂蘭盆会(うらぼんえ)のことを「歓喜会(かんぎえ)」と言い習わしています。これらは共に、阿弥陀如来の本願力や光明に触れて真実信心に目覚め気付かせていただき、仏になるべき身として今を生かせていただいていることを現(あらわ)しています。これに勝る喜びがないことを「踊躍歓喜」と示しているのであります。
 また、お釈迦さまの十大弟子のお一人である目蓮尊者(もくれんそんじゃ)は天眼通(てんげんつう)という神通力を得た時、亡くなった母を見ると、餓鬼道(がきどう)でもがき苦しむ姿しか見えないことに悩み、お釈迦様に相談したところ、多くの弟子の世話をすることを教えられ、熱心に母の供養の為に弟子達の世話をして母の救われる姿を見る事が出来たそうです。その時に、多くの弟子達が目蓮尊者の母が救われたことを喜び踊ったことが盆踊りの起源(きげん)であるとされています。
  尽十方(じんじっぽう)の無碍光(むげこう)は  無明(むみょう)のやみをてらしつつ
  一念歓喜(いちねんかんぎ)する人を  かならず滅度(めつど)にいたらしむ

ひとくち法話No147 ―感動6― より