親鸞聖人のご生涯をとおして

 越後での初めの一年は米と塩の生活で、二年目以降の自給自足に備え河原など荒れ地の開墾に明け暮れて行きました。
流刑者に課せられる掟通り、役人の監視も厳しいものでした。しかし、聖人の信教の深さに役人や寺僧たちが次第に心服していったのも当然のことだったのでしょう。二年目に入ると、行動も相当自由になりました。
このころ聖人にとって大きな喜びがありました。それは、恵信尼(えしんに)さんとの結婚です。家庭のぬくもりを感じられながらも、厳しい日々をこえていかれた事でしょう。恵信尼さんはまれにみる教養の持ち主で、文才もあり書も巧みでした。彼女をよき伴侶とし、人間として、夫として、親として数々の喜びや悲しみの中でいよいよお念仏の深さも増していきました。
さきに「辺地の群類を化せん」と志された聖人は、比叡山で得られた知識をもって、当時鎌倉幕府が進めていた土木治水工事に越後へ送り込まれてきた流民層が負傷したりしたものに止血をしたり、胃腸に寄生虫をもつものたちを苦しみから解放してあげたりしていたので、次第に流民たちが聖人を受け入れていきました。
こうして、「僧に非ず俗に非ず」といわれた聖人の説法に、辺地の人たちは真剣に耳を傾けお念仏の心が浸みわたっていきました。こんな頃、晴れて流罪赦免状がとどいたのでした。