親鸞聖人のご生涯をとおして

 建暦元年、親鸞聖人39歳のころ、越後への配流が解かれましたが、唯一の師匠、法然上人の訃報も越後へ届きました。
聖人は深く悲しみ、悩みました。流罪は許されたが、これから何処へ行くべきか、何をすべきか。法然上人のいない京へは今更行きたくもないし、越後に止まる気もない。随分と悩まれました。
そんな時、ひとつの転機が訪れました。もともと、仏法は、「辺鄙の群萌」(田舎の文字も読めぬような人々)を救済すべきものであらねばならないという基本的な考え方があったうえに、恵信尼さまの父の所領が常陸にあったご縁で、家族共々越後より関東へ移られる決心をされたのでした。関東への旅は大変なことであったと思われます。もちろん当時のことですから、徒歩です。この関東への道すがらも、多くの人々との出会いがあったことでしょう。
そのうえ、聖人はかねてから長野善光寺へお参りし、是非ご本尊の一光三尊仏を直接拝みたいという願いを持っていました。
事実、拝んでみると、ありがたいというか、もったいないというか、観音さま(慈悲)と勢至さま(智慧)を脇にはべらした阿弥陀仏の前に座ると、特別の感慨をいただかれたのです。その深い思いは、今まで書物で仏法を学んでいたが、それとは違った思いでありました。この一光三尊仏には、さらに多くの人々が、お念仏を喜んでくださる不思議なお力があるにちがいないと思われたのです。