親鸞聖人のご生涯をとおして

 29歳で他力念仏に帰依された親鸞聖人は、その後の越後(新潟県)での厳しい流人生活や関東における民衆教化を通して、庶民には念仏こそが確かな救いの教えであることを確信されました。そして、その教えである真宗教義の骨格を数年かけて『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』としてまとめ、聖人52歳の時、ようやく草稿ができあがりました。
今日、真宗教団では、この偉業を讃えてこの年(1224年)を「立教開宗」の年と位置づけています。そして、翌年には「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃(長野県)の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」という二つの有名な夢告がありました。
日頃から聖人の教えに耳を傾けてきた地元の念仏者たちは、これは阿弥陀仏からの勅命であると信じて、遂に一宇を建立したのでありました。これが高田派の起源です。また、その翌年、聖人54歳の時には、朝廷から「専修阿弥陀寺(せんじゅあみだじ)」という勅願寺の倫旨を受けました。これによって、聖人の教化活動は今までの遊行から本寺中心に変わっていきました。
そして、聖人の話を聞くために弟子は言うに及ばず、老若男女、貴賤の区別なく有縁の者が本寺に群参してお念仏を申し、み仏のお慈悲を喜びあったことでしょう。それはまた、ちょうど法然上人が京都の吉水の草庵で大衆にお念仏の教えを説いておられた光景と同じだったに違いありません。
このようにして、高田のお念仏はいよいよ広がっていきました。(『高田正統伝』を参照)