御影堂の西に配置され、御影堂とならんで南面するお堂です。「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像(快慶作 国指定重要文化財)を本尊とし、教義上この堂が伽藍の本堂となります。
建築面積は御影堂に比べるとおよそ半分程ですが、阿弥陀如来の仏殿にふさわしい華麗な建築となっております。屋根を二層として、棟の高さを御影堂とほぼ等しくしているのも、本堂としての威容を示すためだと伺えます。このため外観は二階建てであるかのように見えますが、二階があるわけではなく、下層の屋根は裳階と呼ばれる三種の庇となっております。上層の屋根の軒の組み方を見ると、垂木は二股で、それが扇形になっていて、それを四手先という複雑な組み物で受けています。これらの軒組みは、柱と柱の間にも置かれている、いわゆる″詰組″で、完全に禅宗様(唐様)という建築手法によって建立されていることがわかります。また尾垂木という部材の先端を象・龍・獏の彫刻としたり、下層のかえる蟇股には中国の故事に基づいた人物の彫刻が組み入れたりしていて、実に手の込んだ精巧な建築物となっております。
御影堂が巨大な空間の建築物であるのに対して、如来堂は質的に高度な建築物とも評されております。この造営については、『如来堂御建立録』(高木家旧蔵)や修理工事によって発見された墨書銘などの史料などによってその経過を知ることができます。それら書物によると、発願は享保4年(1719)、着工は翌々6年で、資金難から工事が渋滞し、ようやく元文5年(1740)から地築にかかっています。しかし、地盤が軟弱なために寛保3年(1743)8月まで満三ヵ年を要しました。東南隅の礎石にある刻銘は、このとき勘六という老人が人柱に立った記念と言われております。
その真偽を確かめる史料は現存しておりませんが、その柱付近の地盤が最も軟弱であったことは、先年のボーリング調査によって確認されております。上棟は延享元年(1744)3月24日、落成遷仏は寛延元年(1748)7月18日、棟梁は近江八幡の高木但馬、脇棟梁は白塚の長谷川十右衛門と浜田の村田喜太郎と伝えられております。この如来堂ですが、昭和58年(1983)から七年半の歳月と総工費十四億八千万円をかけて大修理工事が実施され、平成2年(1990)3月に修繕工事が完成しました。
如来堂を建てるための計画発表から完成までの概略経過や、高田派各寺院や門信徒が資金を集めた当時の様子が、年時と共に詳細に記されています。