一般には、他(ひと)の力をいいます。自分は、何もやらずに、誰かがしてくれるだろうと期待する意味でつかいます。
しかし、他力という言葉は、真宗では大切な言葉で、親鸞聖人は「他力とは、人の力ではなく、ほとけさまのおはたらきをいう」と教えられました。
交通渋滞で「立往生」とか、困ったことに出会って「往生した」といいます。
しかし、正しい意味は、この反対で「往(いき)生(いきる)」ですから、行き詰まりから抜け出ることです。だから仏教では、はっきり「ほとけの国に生まれること」を往生というのです。
梵語(ぼんご)で忍ぶという意味の音訳。人間界のこと。この世は、悩み苦しむことが多く、それに耐え忍んでいくことから、この世を娑婆という。
自由のない刑務所から出ることを娑婆に出ると使う人がいる。忍土(にんど)には違いないが、地獄よりはましだという意味でつかわれている。
一般には食事をさせる店や各家の台所を食堂(しょくどう)と呼んでいますが、もとは寺院の七堂伽藍のひとつでした。僧房なので、「堂」の一字がついており、食事のマナーもきびしいものがありました。
今日でも、食前食後に手を合わせ「いただきます」「ごちそうさま」というマナーは生活の基本になっています。
信心には二種あります。普通は、神・仏を向こうにおいて、自分の願いごとを一心にたのむことを「信心する」と言っています。
しかし、真宗はこれを自分勝手な願い心だとして嫌います。
真宗の信心はほとけの方(かた)より『必ず救う』と私にかけられたお心に『ハイ』とうなずくことを「信心」と教えられています。
世間では「ウソも方便」などと使い『いいのがれや、ごまかしの代名詞』になっています。これは大きな間違いです。
「方便」とは仏教の言葉で「正直を方をいう。己を外にすることを便という」とあります。ほとけが、真宗の教えを私たちにわかるように、平易に説いてくださる心です。
「縁起をかつぐ」「縁起が悪い」「だるま・招き猫は縁起物」などといいます。何かをするときのよしあしの判断に、この言葉がつかわれています。
しかし、仏教でいう正しい意味は「縁起とは、すべての因(原因)と因に働きかける縁(条件・きっかけ)によって、生じ変化し滅ぶという永遠の真理」です。だから、目先のできごとについて、自分の勝手な都合にあわせて使うのは間違いです。
神・仏に『どうぞたのみます』と心を込めてお願いする行為が祈願です。初詣はその代表的な習俗といえましょう。
しかし、親鸞聖人は、この祈願を「わたしたちの願いは、自分勝手なことばかりであること。仏さまは、そのような私の心をすべてお見通しであることだから」と教えて否定されました。
だから、私たちは必ず救うと約束された仏さまの誓願に「お念仏を申すばかりなり」とうなずいて、お参りするほかありません。
ふつうは生死(せいし)と読みます。生きているか死んでいるか。生死の境をさまよう、生死不明などと使います。
和讃では、「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし」とおつとめします。つまり生死というと、単なる生と死ではなく、私自身が今生きているこの娑婆・迷いの世界そのものを言い表す言葉となります。
生死(しょうじ)界は苦海です。
ふつう同行(どうこう)と読みます。同行する、同行者などと道連れの意味で使います。
真宗では、○○寺の同行(どうぎょう)といいます。同じ教えをきき、同じ念仏を申す仲間のことです。
修身、修養、修学など「修」は「しゅう」と読むのが一般的なので、「せんしゅうじ」と読む人が多くいます。
しかし、私たちの本山は「専修念仏(せんじゅねんぶつ)(お念仏ひとすじのみ教え)」から付けれてた寺号ですので「じゅ」と読みます。
「たかださん せんじゅじ」と正しく読むようにしましょう。
真宗では一般に「数珠(じゅず)」のことを「念珠」といいます。もとは念仏の数を数える道具だったのです。
念珠のひとつひとつの珠は私たちです。それが一つのひもで輪になってつながっているのは、お念仏という仏さまの心で、みんな仲良く輪(和)になっているということです。だから、手を合わせるにふさわしい道具ともいえます。
教会の結婚式に出席したら牧師さんが礼拝(れいはい)と言いました。礼状、礼儀など「れい」と使うのでマスコミも礼拝(れいはい)といっています。
しかし、仏教では昔から合掌(がっしょう)・礼拝(らいはい)と「らいはい」と読むのが慣わしです。読み方が違うので気を付けましょう。
一般には「安心(あんしん)」です。心の迷いや悩みが晴れた状態をいいます。
仏教では、ほとけの教えにハイとうなずく心を「安心(あんじん)」といい、「信心(しんじん)」と同じ意味で使います。だから安心という二字は同じでも意味に違いがあることを知って聴聞(ちょうもん)しましょう。
一般には「尊重(そんちょう)」と読み「人権尊重」などと使います。「尊重(そんちょう)」は人間同士がお互いに相手を大切にする意味です。「尊重(そんじゅう)すべきは世尊(せそん)なり。」この文は、私たちが親しんでいる和讃の一行です。「尊重(そんじゅう)」は、仏さまを尊み敬うこころをいい、信心と同義に用いられています。
普通は「億劫(おっくう)」と読んで「気乗りのしないこと」をいいます。
この言葉のもとは、仏教からで「おっこう」と読みます。劫(こう)は、極めて長い時間のことで、それを億倍したものが億劫(おっこう)ですから「無限」「永遠」という意味で用いられています。
親鸞聖人が、「真実の浄信、億劫(おっこう)にも獲(え)がたし」とのべられたのは有名です。
じっとこらえて、辛抱(しんぼう)することを「我慢強い(がまんづよい)」などといって、人間の修養(しゅうよう)には大切な心構えのようにいわれています。
しかし、もとは仏教語で「自慢」の意味で使われています。自分の才能をたのんで、他人に押しつけたり、我執(がしゅう)によって自分をおごることです。
この心は、ほとけの教えに逆らうので「念仏を信ずることかたし」といましめられています。
ほどこし。信者(しんじゃ)は僧(そう)に財物をめぐみ、僧は信者に法を説く。ともに布施ですが、現在では僧へのめぐみを「お布施」と使います。代表的な仏教語です。
自力宗(じりきしゅう)では、仏へ近づくための修行に六波羅密(ろっぱらみつ)という6種の行(ぎょう)〔布施・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)〕があり、そのひとつが布施です。
ほとけさまがこの世に出られたことを出世といいます。また我々が世間を捨てて仏道にはいることにも使います。
現代では金銭的に裕福になるとか、地位をのぼることを出世といいますが、欲得を離れた本来の意味からいえば寂しい限りですね。
一般には、「りょうかい」と読み「了解」と書くのが普通です。仏教では「りょうげ」と読みます。
ほとけの教えを知識として理解するだけでなく、心から『その通り』と納得するさまが領解(りょうげ)です。
真宗では「信心」と同意語として用いられています。
仏教の言葉です。迷いの世(この世)を此岸(しがん)というのに対して、ほとけの国を彼岸(向う岸)といいます。春分の日、秋分の日を中日として、その前後の7日間です。この時期は、日が真東から出て、真西に沈むので、日没の所を観じて、極楽浄土を想い、そこに生まれることを念じたことに由来しています。真宗ではこの時期の法会を讃佛会(さんぶつえ)といっています。
男子に対する尊称の言葉で、一般には、その家のあるじのことで「檀那さん」と使います。
「檀」には、ほどこす、施主という意味があるので、教団では、財物を布施する信者を「檀家」といい、檀家は自分の菩提寺を「檀那寺」と呼んでいます。
わずらわしい(煩)なやみ(悩)の原因となる心のすべてを煩悩といいます。むさぼり、いかり、おろかさ、うぬぼれ、うたがい、へりくつなどが代表的です。
真宗では、私の心のすべてが煩悩だから、自分の努力、精進、祈願では仏になれないと教えられています。
仏教で、精神を集中して、雑念を捨てることをいいます。念仏ひとつのことを「念仏三昧」、一心に読書することを「読書三昧」などと使います。
また、地方によってはお墓のことを「三昧(場)」といいます。お墓参りの心のありようを三昧であれということでしょう。
健康な人、元気な老人を「達者」という。「足が達者」はよいが、「口が達者」は、自己主張の強い人のことをいうので用心。
「達者」はもともと、禅宗などで、修行で仏法の道理を体得した人をいいます。その道の道理を極めた人のことなのです。
お経では「ごくすぐれた」「最上」という意味で、『じょうぼん』と読みます。〔反対語は下品(げぼん)〕
世間では、人柄、様子などに、いやらしさのない様を上品(じょうひん)といいます。おもに表面的な姿や仕草の上からいうのに対して、お経では「ほとけになる人々の心の優劣」を「上品」「下品」と表現しているのです。
「功徳を積む」というふうに言えば、他人様に喜んでもらえるたねまきをすれば、自分にご利益があるという自力修行の考えをさします。しかし、真宗で言う「功徳」は阿弥陀如来のお働きであって、わたしたち凡夫のおこないから生まれるものではないと教えられています。
仏教の戒律に「昼過ぎから翌朝までは食事をしない」とあり、この時間を「非時」と言っています。
会葬者に出す食事のことを「お非時」と使いますが、これは「非時食(ひじじき)」の意味で、食事時間以外の食事だからです。
一般には、厄介者(やっかいもの)を邪魔なやつといったり、相手の都合を妨げたという意味で「お邪魔しました」と使います。仏教では、修行の妨げをする悪魔のことをいいます。
仏教儀式の際に、ほとけの徳を讃えて僧侶が、節をつけて唱えるものを「声明(しょうみょう」)といいます。一般には「せいめい」と読みます。自分の立場や考えを公にすることです。同じ熟語ですが、違った意味で使われています。
昔、比叡山での僧侶の身分は学生(がくしょう)、堂僧(どうそう)、堂衆(どうしゅう)に分かれていました。学生は、貴族出身の僧で、選ばれた人々でした。聖人の身分も学生でしたが、仏道修行を目的にした「堂僧」としてつとめられました。
今は大学で学ぶ者を「学生(がくせい)」といっています。
お仏壇(仏前)のおかざりをきれいにすることを「荘厳(しょうごん)」するといいます。
一般には寺院の建物や儀式が感動的でおごそかなとき、その雰囲気を「荘厳(そうごん)」と表現します。
読み方は異なりますが、いずれも宗教的信仰に関わって使われています。
物事が十分に備わっている様をいいます。「円満具足(えんまんぐそく)」などとつかいます。
仏前のお荘厳で花瓶(かひん)(お花)燭台(しょくだい)(ろうそく)、香炉(こうろ)(線香)の3種の仏具を「三具足(みつぐそく)」といいます。必要なものがすべて揃っているという意味です。
普通は「相談の結果、そうすることに決定(けってい)しました」などと使います。仏教では「けつじょう」と読み、疑いのないこと、必ずそうなるという意味で「往生決定(おうじょうけつじょう)」「信心決定(しんじんけつじょう)」などと表現します。
ふつうは「たいしゅう」と読み「民衆」「一般の人々」という意味で「大衆文学」「大衆化」などと使っています。
仏教では「だいしゅ(う)」と読み、多くの修行僧、僧の集団のことをいいます。ともに「たくさんな人々」の意味ですが。内容に違いがあります。
普通、人と人との間で人格や行いが素晴らしいと、その人を「そんけい」するといいます。
お念仏を申すと、阿弥陀如来だけでなく、天地の神々や閻魔法王等からも「尊敬(そんきょう)」されますと説かれています。
その社会の中で、果たす役割からみた位置(いち)のことを地位といい、高いとか低いとか気にします。真宗では「不退の位すみやかに」のように仏になる位を地位(じい)といいますから、この地位(じい)はひとつなのです。
学校で学ぶものを知識といい、教養のある人を「知識人」と呼んでいます。仏教では、単なるものしり知識ではなく、ほとけの教えを体得(たいとく)して、道を説いてくださる方を「善知識(ぜんぢしき)」といって尊敬します。
仏教用語としては「覚」も「悟」もさとるという意味で、迷いからのめざめを現す言葉です。
一般には「覚悟しろ」などといって、あきらめて決心するという意味に使われています。
普通一般には「りえき」と読みます。損得勘定の『得をすること』『もうけ』のことです。経済活動はすべてこの利益が目的で行われています。
宗教・信仰上では、『神仏によって与えられる恵みのこと』を『ご利益(りやく)がある』などといい、真宗念仏者の最高のご利益(りやく)は、この私が仏になることだと教えられています
限りなくとどまらず、移り変わってゆくこと。迷いを代表する言葉で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道を生まれ変わり死に行くさまをいいます。真宗のお念仏はこういった迷いの世界を離れて仏の国に生まれる事を約束されています。
巨人が優勝したとき、長島さんがそのよろこびを「監督冥利」といいました。仏教の言葉で、よい行いをした報いとしてのしあわせのことです。「南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし」もまた同じことです。
何事も生まれる前から決まっているという考えを運命論といいます。しかし、仏教経典には「運命」の文字はありません。縁に依って人生は変わっていくという縁起の法が仏教ですから、聞法の縁を重ねる努力が大切です。縁をつくるのは本人次第です。
一般には、学校や職業や役割を希望して願いでることをいいます。この言葉は、もと仏教語でお経の中に「志願深広(しがんじんこう)」とでています。
ほとけさまの心は、私たちすべての迷いを破して、私たちすべてを救うという深くして大いなるものだというのです。
土地資源や技術・教育などの分野で、新しく利用したり実用化することを開発(かいはつ)といいます。仏教語では「かいほつ」と読み、ほとけの教えによって心が目覚めることをいい、信心開発(しんじんかいほつ)などと使います。お念仏をよろこぶ心になるということです。
この頃の若者は行儀を知らぬ。この子は行儀が良いなどといいますが、行儀は、本来修行者の行(ぎょう)・住(じゅう)・座(ざ)・臥(が)についての規則や仏事の儀礼のことでした。行儀を正すことは、こころの背骨をシャンとさせる大切な要素です。まずは大きな声で挨拶(あいさつ)をする習慣をつけましょう。
人と出会った時に、頭を軽く下げることを「会釈する」といいます。このエチケットを知らないと「遠慮も会釈もない」者と笑われます。この語は仏教用語で、異なる教えにも「会通解釈(えつうかいしゃく)」すれば共通点があると使います。なによりも「思いやりの心」が大切です。
平和でおだやかであるという意味の言葉です。親鸞聖人は「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と念ぜられました。御影堂(みえいどう)工事素屋根の東側に、この言葉が大きく掲げられていました。
弔辞(ちょうじ)などで「袖ふりあうのも多生の縁」とよく使いますが、何度も生まれ変わって、やっとあなたに巡り逢えたという意味です。だから、「多少」や「他生」などと書くのはあやまりです。
孤は、親を失った子ども。独は、子供のない老人のこと。『御書(ごしょ)』に、悲しみの極みは、老少不定(ろうしょうふじょう)の親子の別れと説かれています。
これ以上細分化できない粉々の状態をいい、「微塵切り」「木っ端微塵」などと使います。もとは仏教から出た言葉で、その十分の一を「極微(ごくみ)」と表現しています。
「衆」とは多くの人のことで、仏教では、この世に生きているすべてのものを「衆生」と呼んでいます。そしてほとけさまは、この衆生を救うところから「衆生済度」するなどと用います。
祥月は、亡くなった当月で、命日はその当日のことです。「祥」は、めでたいしるしのことで、「命」は、いのちです。つまり、亡くなったご先祖さまをご縁にして、賜ったいのちをよろこぶ大事な時という意味です。
仏前で読経などをする「おつとめ」のことです。一般には、精を出して善事を行うことをいいます。精進と同じ意味なのです。
取り入れて自分のものにすること。栄養を「摂取」するなどと使います。
仏教では、仏の慈悲の光が迷い苦しんでいる人々を救いとることをいい、親鸞聖人は「摂はおさめとる。取はむかえとる」と意味づけされています。
前後をわきまえず、その時々の感情だけで生きていこうとする考えを「刹那主義」といいます。極めて短い時間、瞬間のことをいう仏教語です。
裁判にかけずに双方が話し合いで争いを解決することを「示談で済ます」といいます。仏教では信仰上の質問や疑問に答えてお互いに話し合うことを「ご示談」といいます。
迷いから抜け出ることです。仏教では私利私欲から離れ、ものにとらわれない境地に入ることをいいます。親鸞聖人は「解脱というは、さとりを開き、仏になることをいう」と解説されました。
決められた所へきちんとおくこと。特に仏像や遺骨、位牌などを定めた場所に置くことをいいます。こころがやすらかに定まるのは、安置した仏さまと向き合うときではないでしょうか。
形の整った福々しい顔を見て、円満な顔と言ったりします。仏法では、欠けたところのない、すべてが満たされている完全無欠という意味で使われています。
W杯予選で日本が勝ったとき、新聞の見出しが『悲願の1勝』でした。是非ともという心の底からの悲壮な望みで、この言葉は仏教から出たものです。阿弥陀如来さまが私たちを必ず救うと誓われたほとけの心をいいます。
人にいやな思いをしたり、させたりすること。仏教では、道理に暗く、はっきりしないので心が迷うことをいいます。
もとは仏門に入って心身を清める意味でしたが、後には「精進料理」といって、魚・鳥・獣等の肉を食べないことをも含めて言うようになりました。一般には、物事に努めて励むことをいいます。
武芸を練習するところ、仏道を修行する場所を道場といっています。だから、私たち真宗でいえば、お同行が集まってお念仏の教えを聞法するところ。つまり寺院そのものが道場なのです。
この世、社会のこと。仏教はこの世を迷いの世界と捉えて、世間といい、悟りの世界を出世間(しゅっせけん)といって区別しています。
一般には、ずっと思い続けてきた本来の願いのこと。宿願の意味です。真宗では、私たちを浄土に救おうと誓われた阿弥陀仏の根本の願いを本願といいます。
「宗門を同じくする信徒」の意味ですが、特に真宗の信者を総称して言います。真宗の信者は世俗のことにはこだわらず、ただひたすらにお念仏をもうすばかりです。
あらゆるものは生滅・流転して変ってゆくこと。人が亡くなり、葬儀の場に出ると必ずこの言葉が挨拶がわりに使われて、世のはかなさを教えてくれます。
人間の根本的な愚かさ。思ってはならぬことを思って、我が身をよしとするはずかしいこころをいいます。
仏教の歴史観で、釈迦入滅後1500年のちの1万年を末法時代といい、仏教が伝わらない時代と教えています。だから、末法は、道徳がすたれ、世も末であるという意味です。まさに現代の世相を象徴している言葉です。
慈は楽を与える、悲は苦を抜くという意味です。私たち凡夫の勝手な情けや親切心と区別して、ほとけのお心を「大慈悲心」と呼んでいます。
本当の道理を説き、めざめよと導いてくださる仏の心。世間でも、ものわかりのよい人を智慧者というが、人間は、自分を離れられないので悪知恵に堕することが多い。
仏教では、いのちの縁が尽きて、肉体の形が亡くなる(死)ことをいいます。私たちは、こんなことはあってほしくないので、とんでもない、無茶なことを「滅相もない」と表現します。
学識・経験が豊かで、その社会で尊敬される人。特に仏教では高僧の尊称として使われます。『阿弥陀経』の中では、智慧第一の弟子である舎利弗(しゃりほつ)のことを「長老舎利弗」と呼んでいます。
仏さまを礼拝するときの礼法で、胸の前で両手の掌(てのひら、たなごころ)を合わせることです。合掌は、人間の最も美しい姿です。
親子、夫婦間の愛情。お互いに恩を感じながら、愛情に縛られるので「恩愛はなはだたちがたく、生死はなはだつきがたし」と和讃の中でのべられています。
地球全体のこと。「世」は過去・未来・現在、「界」は上下四方の意で、宇宙の代名詞。経典には、インド人の宇宙観から「三千大千世界」という表現があります。
自分の誤った思いにとらわれて、いつまでも忘れないことを執念深いといいます。この心では、ほとけの教えを素直に聞くことが出来ません。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』の経文に「天下和順(てんげわじゅん)」とあります。ほとけさまの教えが人々の心の中に生きているところは平和でおだやかという意味です。
すべてのものは、因縁(いんねん)によって生ずるものだから、我(われ)という実体的なものは無いという意味です。物事に我を忘れて熱中し、他を顧(かえり)みないことを「無我夢中(むがむちゅう)」といいます。
仏教(ぶっきょう)は真実(しんじつ)だから、仏教以外の教えや、真理(しんり)にはずれた主張を外道といいます。人間は自己主張が強いので外道に陥(おちい)らぬよう常に留意(りゅうい)したいものです。
人の言うことを素直に聞けない、意地悪い人を「邪見な人」といいます。正信偈(しょうしんげ)に「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とのべられて、このことはひとごとではないと教えてくださっています。
一般には、人・馬・車等が往来するところを道路といいますが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、「道」は阿弥陀如来が説かれた念仏をいい、「路」は自力の萬善諸行(まんぜんしょぎょう)をいうと解説されています。往生浄土(おうじょうじょうど)への厳しさが示されています。
臨終(りんじゅう)のとき、仏や菩薩(ぼさつ)がお迎えにくることをいいます。真宗は現世(げんせ)の救いなので「臨終を待つことなし、来迎をたのむことなし」と教えられています。
普通は「名声(めいせい)を博する」などと使いますが、仏教では「名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)」〔重誓偈(じゅうせいげ)〕のように仏の声のことです。阿弥陀仏の「あなたを必ず浄土に救います」という呼び声を名声といいます。
ほとけの教えを素直に正しく聞いて、邪魔をするものによって乱されない信心をいいます。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「本願(ほんがん)を疑いなく信ずる心の定まったことを正念という」と、のべられました。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「凡夫というは、欲が多く、いかり、はらだち、ねたむ心の絶えない、そして生涯消えることのない人々のこと」と教えて下さいました。つまり凡夫とは私たちのことです。
ほとけの住む清らかな国(世界)です。私たちの真宗では「阿弥陀仏のご本願を信じお念佛を申せば お浄土に生まれます」と親鸞聖人が教えて下さっています。
望みが叶うこと。すべてが満たされること。凡夫(ぼんぶ)はあらゆる煩悩(ぼんのう)をすべてそなえているので「煩悩成就のわれら」と和讃にでています。
いやおうなしにという意味で、「有無をいわせない」と使います。真宗では、私たちの心で思うこと、口でいうことのすべてが、自分の都合に立つので「有無の邪見(じゃけん)」といってしりぞけられます。
この世のこと。たよりになるものがなく、はかないところなので「浮世」といいます。仏教では、つらくて苦しい世間を「憂世」といいます。だから一般的には、この両方の意味を持って使われています。
親鸞聖人は「歓は身のよろこび、喜は心のよろこびで、往生が確かであることが知れた時のこのうえないよろこびをいう」と説明されました。一般には「かんき」と読み、おおよろこびするさまをいいます。
病人を介抱することで、仏教からきている言葉です。『大言海』に「僧が説法して病者を癒すこと」とあります。現代でいえば、患者の不安や苦痛を精神面からやわらげていこうとしているホスピスのこころでしょう。
一般的には「せんしゅう」と読んで「そのことばかり勉強すること」をいいます。真宗では阿弥陀仏のみ名を称えることを「せんじゅ」といい、その意味で、私たち本山の寺号も「せんじゅじ(専修寺)」といいます。正しく申しましょう。
欲の深いものが死後におちるところ。ここに落ちた亡者は、常に飢(う)え、渇(かわ)き、苦しみ悩むといいます。
誰もが思い出すのは、入学式や卒業式を行う学校の講堂でしょう。この建物は、もとお寺の建物の一つで、仏教を学ぶお堂のことでした。高田本山には、現在も立派な講堂があって、報恩講にはお説教を聴聞するところとなっています。
聴も聞もともに「きく」ことですが、聴は体できき、聞は耳できくことともいわれます。「仏法聴聞(ぶっぽうちょうもん)」と熟語となっているので、仏法は全身で「きく」心構えこそ肝要であります。
仏道を修行する者。一般の印象としては、一定の行装(ぎょうそう)をして、名山や霊蹟(れいせき)を巡拝する人々の総称です。私たちの真宗では、お念仏を申すお同行を「念仏行者(ねんぶつぎょうじゃ)」といっています。
少しもけがれなく、清らかなこと。一般仏教では、煩悩(ぼんのう)や罪のないことを言う。真宗では、ほとけさまのお心をあらわす言葉となっています。
仏教で、仏が説くことは、時、所、相手によって違いはあっても、その仏の願いは同じという意味です。同じ仲間、同じところ、同じ味。
のぞみがみち足りて、不平不満がないこと。和讃に、お浄土に生まれると、あらゆる願いがかなえられるから「すみやかにとく満足す」とのべられています。
心身に苦痛がなく、安らかで楽なこと。真宗では、阿弥陀仏の浄土の異名で「往生安楽国」などと使われています。
迷いの世界を生まれかわり死にかわりすること。仏教では、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に生死を繰り返すことを六道輪廻といいます。
大きな乗り物の意。ほとけの教えは、人間のはからいを超えて、あらゆる人々をお浄土に救うという大きな働きなので大乗という。世間でも、私情や眼前のことにとらわれないさまを「大乗的な見地に立つ」などと使います
同じ修行仲間のことを「同行(どうぎょう)」といいますが、聖人は、お弟子たちへのお便りの中で、お念仏を申すともがらを「とも同朋」と申されています。私たちは普段は同行も同朋も同じ意味で使っていますが、「同行」より親しみ深い意味が込められている言葉のようです。
念仏者が、死後阿弥陀仏に迎えられるお浄土の別名です。『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』には「その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽という」と説かれています。
鳥獣虫魚の総称で、けだもののこと。仏教では、生前の悪行のむくいで死後に落ちる三悪道(さんなくどう)〔地獄(じごく)・餓鬼(がき)畜生(ちくしょう)〕の一つになっています。
夜通しすること。人が亡くなった時、近親者や知人などが集まって、遺族をなぐさめ、故人をしのぶことを「お通夜」と言っています。夜通しでそばにつき添うので夜伽(よとぎ)ともいいます。
恩を知りて、徳を報ずる〔知恩報徳(ちおんほうとく)〕のこと、ほとけさまのご恩を知って、そのおめぐみをよろこばせていただくこころです。『恩徳讃』という仏教讃歌があり、みなさんに親しまれています。
自分の思うままになる。自由になるという意味から「自由自在」などと使います。親鸞聖人は、『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中で、阿弥陀仏のことを、別名「自在人(じざいにん)」と申されています。
本人が、希望により苦痛の少ない方法で死を迎える「安楽死」が話題になっています。
仏教では、身にも心にも苦痛がなく、安らかで楽なことを安楽と言います。極楽浄土の別名を「安楽国(あんらくこく)」と言い、廻向文(えこうもん)の最後に「願生安楽国(がんしょうあんらくこく)」、「往生安楽国(おうじょうあんらくこく)」とおつとめしています。
量が、計り知ることができないほど、多いという意味です。「感無量」という言葉があります。
ご本尊の阿弥陀如来のお心を、無量寿・無量光と申しあげるのも、地獄に落ちて当然の私たちをお浄土に救いますという大いなるおはたらきのあるほとけさまだからです。
教えに「この娑婆(しゃば)を火宅に喩(たと)える」とでています。私たちは、煩悩(ぼんのう)に悩まされて、つねにいかり はらだちの心がおこってくるので、それを火事で燃えている家に喩えるのでしょう。この世を「火宅無常(かたくむじょう)の世界」などと使われています。
仏教では、この世を娑婆(しゃば)といい、どこまでも耐え忍んで生きていかねばならない苦しいところと教えています。苦海も娑婆と同意語で、和讃(わさん)には「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし」と述べられています。
明かりが無いとは、ほとけの教えを聞くこころが無いということ。自分だけの理屈で生きていこうとする煩悩(ぼんのう)の根本をいいます。親鸞聖人は、そういう私たちを「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と教えられました。
普通は、自分の努力や修行によって迷いから目覚める事。さとりの境地(きょうち)をいいます。
しかし真宗では、煩悩を断つことができない私たちに、阿弥陀仏から「そういうあなた達を浄土に救います」と約束される。この阿弥陀仏のおこころを菩提心と説かれています。
死後のこと。来世(らいせ)、後世(ごせ)ともいいます。
後生(ごしょう)の安楽(あんらく)を願い、生前に一心につとめることを「後生大事(ごしょうだいじ)」といいます。「後生の一大事」とは、死後の行き先をはっきりさせることです。
お釈迦さまが蓮華(れんげ)をひねって弟子に示した時、伽葉(かしょう)一人がその意をさとって微笑(みしょう)したという故事があります。これを拈華微笑(ねんげみしょう)といいます。一般にはにっこり笑うこと、ほほえみを微笑(びしょう)といいます。
ほとけの教えのこと。
ほとけの教えは、私たちの煩(わずら)い悩(なや)むこころを打ちくだいて、どこまでも進んでいくので、車輪にたとえた語です。
良いことと悪いこと。
ことのよしあし、道理(どうり)のあるなしがわからないことを「是非知(ぜひし)らず」といいます。常識がないということでしょうか。
法語に「是非知らず、邪正(じゃしょう)もわからぬこの身」ときびしく教えられています。
仏教では、最もすぐれていることを「殊勝(しゅしょう)」といいます。
『正信偈(しょうしんげ)』には、阿弥陀(あみだ)ほとけの誓いを「無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)」とのべられています。世間でも、心がけや行いが健気で感心なことを「殊勝な心がけ」などと使います。
いつもにこやかで、柔和(にゅうわ)なほとけさまのお顔のこと。経文(きょうもん)には、やさしいことばとあわせて「和顔愛語」とでています。
私たちの生活の中でも、このようなほとけさまのお姿やおこころにあやかりたいものと、よくこの語句が使われています。
わけへだてをするこころ。経典には「衆生(しゅじょう)は邪見(じゃけん)をもってのゆえに、心に善・悪、美・醜、損・得、有・無 などと分別して、かえって苦の因となる」と教えています。世間では、常識的に物事を判断する人を分別のある人と評します。最近は、違うものを別々にわけることを「ごみの分別収集(ぶんべつしゅうしゅう)」などとこの文字を使っています。
驕(きょう)は、人をあなどること、慢(まん)は、おごりたかぶることです。何ごとにも自己主張が強く、他人を見くだすこころや態度をいいます。仏教では根本煩悩の一つとして、きびしくいましめられており、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『正信偈(しょうしんげ)』に私たちのことを「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とのべられています。
「劫(ごう)」は、仏教で用いている長い時間の単位です。だから「永劫(ようごう)」は、非常に長い年月のことをいいます。和讃の中に、無始よりこのかた娑婆(しゃば)の苦悩の中でどっぷりとつかっている者が、ようやくお念仏のご縁にあって、往生浄土するさまを、「娑婆永劫(しゃばようごう)の苦をすてて、浄土無為(じょうどむい)を期(ご)する」と表現されています。
一般には永劫(えいごう)と読んでいます。
物事のすべては、因(いん)〔起原(きげん)〕と縁(えん)〔作用(さよう)〕によって決まっていくという。これは仏教の根本道理です。従って私たちは、この道理の上で、どう生きていくかが問われます。生き方次第で結果が変わっていくというのです。
だから吉凶禍福(きっきょうかふく)は、人間の意志にかかわらず受けるものだとする宿命論(しゅくめいろん)や、物事は前世から決まっているという運命論(うんめいろん)などは、仏教の道理ではありません。
ハスの花。この花は、陸地では生えず、卑湿(ひしつ)のどろ水の中から生ずる清楚な花なので、それはちょうど煩悩具足(ぼんのうぐそく)の泥の中で生きている私たちが、浄土に生まれるに喩(たと)えた花となっています。『阿弥陀経(あみだきょう)』には「お浄土の蓮華は、大車輪のようで、青色青光(しょうしきしょうこう)、黄色黄光(おうしきおうこう)、赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)、白色白光(びゃくしきびゃっこう)と咲いて、微妙香潔(みみょうこうけつ)です」と紹介されています。
「度(ど)」は、わたるという意味です。迷(まよ)いの世界から悟(さと)りの世界へ度(わた)り得ることで、僧侶(そうりょ)になる儀式をいいます。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)が9歳で得度されたので、真宗(しんしゅう)は各派(かくは)とも、9歳になったら得度を受けることができるという慣(なら)わしになっています。
濁(にご)り、けがれた世を濁世(じょくせ)といいます。仏教では、現代そのものを末法五濁(まっぽうごじょく)の世と教えています。
五濁とは「①疫病、災害、戦争が多発する ②思想が悪化する ③本能のままの生活をする ④人間の品格が堕落(だらく)する ⑤いのちを無駄にする」です。
昨年は「偽(ぎ)」の世相でしたが、これはまさしく濁世であることの証明でありましょう。
変わったところがない、平生(へいぜい)のこと。
聖人は、「つねのときなり」と左訓(さくん)されて、信心も念仏も尋常の時節(じせつ)にこそ大事であって、臨終(りんじゅう)を待つべからずと申されています。
前世 つまり、生まれてくる前からの因縁(いんねん)を宿縁といいます。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、お念仏(ねんぶつ)の教えにあって、お浄土へ生まれる因縁ができたことは、今生(こんじょう)におけるご縁だけでなく、前世からの因縁があればこそですと味われて、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べと申されました。
お経の中に「臨壽終時(りんじゅじゅうじ)」という言葉があります。「寿終(いのちおわ)る時に臨(のぞ)む」と読みます。
医師が、いままさに亡くなっていく方の脈をみていて、その脈が止まるとき「ご臨終です」と告げます。
私たちの煩悩(ぼんのう)は「臨終の一念にいたるまで、きえず、たえず」という法語もあります。
仏教では、この世は堪忍するところと教えています。「ならぬ堪忍、するが堪忍」という諺があります。思い通りにならぬことをじっと我慢して耐えていくことです。
念仏者の源左同行(げんざどうぎょう)は「私が堪忍するどころか、人さまにこらえてもらってばっかりの私です」といわれたといいます。これは、念仏者の心のすわりを教えてくださった大事なひとことです。
私たちは、自分のことならどこまでも、むさぼり求めていきます。特に名声や利益については、度を超えた底無しの激しい欲望心をもっています。
そこで仏教では、貪欲は人間苦悩の原因であり、これをどのようにコントロールしていくかが人生の課題であると教えています。
「身命(しんみょう)を投げだして、仏の教えに従うこと」と『広辞苑』に出ています。その代表的な姿は、自分の頭(こうべ)を仏の足につけて礼拝(らいはい)する「帰命頂礼(きみょうちょうらい)」です。
また、私たちが毎朝おつとめをする「正信偈(しょうしんげ)」の最初の文言(もんごん)は「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」で始まっています。心しておつとめしましょう。
はるか遠い昔のこと。「永遠(えいえん)」と同じ意味ですが、永遠は「永遠の平和」のように未来にも使います、それに対して久遠は、久遠実成(くおんじつじょう)、久遠無量(くおんむりょう)、久遠劫(くおんごう)などとすべて過去無限の意味で経典に使われています。
仏教で、最も大事な三つの宝もの。
聖徳太子(しょうとくたいし)の『憲法(けんぽう)十七条』に、「篤(あつ)く三宝を敬(うやま)う。三宝とは仏(ぶつ)・法(ぽう)・僧(そう)なり」という有名な文言があります。仏とは、ほとけさま。法とは、ほとけの教え。僧とはほとけの教えを実践する者をいいます。
三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)の一つで、親鸞聖人は「いかり、はらだち、ねたみ、そねむ凡夫(ぼんぶ)のこころ」と申されました。
このこころは、ひとつまちがうと何を仕出かすか分からない恐ろしいこころなので、「瞬間湯(しゅんかんゆ)わかし器」にたとえられています。
邪魔するもののないさまをいいます。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「さわりなきこと」と左訓(さくん)されました。
真宗(しんしゅう)のご本尊(ほんぞん)である「阿弥陀如来」の別名である「尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」には、この文字がつかわれています。どんなものにも碍(さ)えられないおはたらきのほとけさまだからです。
正信偈(しょうしんげ)に「帰命無碍光如来(きみょうむげこうにょらい)」とあります。
死にぎわ。生涯を閉じる時をいいます。
お経の中に「心からお浄土に生まれたいと願って、お念仏を申す者には、臨命終時(りんみょうじゅじ)(いのち終る時に臨んで)ほとけがあなたの前に迎えにきます」という大事な文があります。
香のにおいが、衣服にしみこむさまをいいます。花園を歩いていると、いつのまにやら服装まで花の香りがついてしまいます。
本堂の畳や柱などは、四六時中(しろくじちゅう)仏法に薫ぜられているので、自然と尊く感ぜられます。
「ほとけさまは、いつも私たちの心を見ぬかれて、和顔(わげん)(おだやかな顔)と愛語(あいご)(やさしい言葉)で教え説かれます」と経典に出ています。私たちも、このような、ほとけさまの「和顔愛語(わげんあいご)」のおこころを手本にして生活したいものです。
私の誕生から亡くなるまでの間をいいます。
仏教では、生まれてくるまでを前世〔前生(ぜんしょう)〕、亡くなってからを後世〔後生(ごしょう)〕といい、私のいのちは、この三世(さんぜ)を貫いていることを教えています。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「現世利益和讃(げんぜりやくわさん)」とか「現生(げんしょう)に十種の益(やく)」などと、この語を使われています。
「踊(ゆ)は、天にを(お)どるをいう。躍(やく)は、地にをどるをいう。よろこぶこころのきわまりなきかたちなり。」
これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、ほとけの教えを素直にいただけた時の念佛者の姿をのべられたものです。
『広辞苑(こうじえん)』に、「念仏以外の諸行(しょぎょう)を修めて、極楽往生を願うこと」と出ていますから、この語は、真宗だけで使われている用語でしょうか。さまざまの行法(ぎょうほう)を雑(まじ)えての修行を雑修(ざっしゅ)といい、あわせて「雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)」と熟語になっています。
いうまでもなく、真宗はお念仏が専修正行(せんじゅしょうぎょう)であります。
あかるく輝く光を光明といいます。仏教では一般に、ほとけの智慧(ちえ)を象徴(しょうちょう)して光明といいます。真宗の阿弥陀仏は、特に私たちの迷いの闇を破って、救いの道をお示しくださったので阿弥陀仏を無量光(むりょうこう)、無辺光(むへんこう)などの十二光(じゅうにこう)をもって讃歎(さんだん)しています。
煩悩(ぼんのう)を断った悟りの境地(きょうち)。真宗でいえば、「念仏の人は、無上涅槃(むじょうねはん)にいたる」と教えられています。また、お釈迦さまの入滅(にゅうめつ)を涅槃といいます。高田本山では、毎年3月15日に如来堂(にょらいどう)に大きな「釈迦涅槃図(しゃかねはんず)」を掲げて、涅槃会(ねはんえ)がつとまります。
めぐらし、さしむけること。
一般には、自ら修めた功徳(くどく)を、他者の利益(りやく)のためにさしむけることや、仏事を営んで、死者の成仏を祈ることをいいます。
真宗の回向はすべて、ほとけの本願力(ほんがんりき)のしかからしむるはたらきを回向といいます。
こころ安らぐ、静かな境地(きょうち)。辞書には「苦なく、欲なく、煩悩(ぼんのう)もないさとりの世界」と出ています。つまり、阿弥陀如来(あみだにょらい)のお浄土の異名(いみょう)です。「西方寂静無為(さいほうじゃくじょうむい)の楽(みやこ)」などと使われています。
神・仏など、すぐれたものを頼みとし、その力を信じ、よりすがること。「世尊(せそん)に帰依したてまつる」「一心に帰依する」などと使われている。帰命(きみょう)と同意。仏教語です。
善を木の根にたとえていう。よい果報をもたらす善い行いのこと。「善根功徳(ぜんごんくどく)」という言葉があります。真宗の善根は、お念仏です。
成仏得道(じょうぶつとくどう)の略で、さとりを開くこと。お釈迦(しゃか)さまが、35歳の12月8日に、菩提樹(ぼだいじゅ)の下でさとりを開かれたので、この日を記念にしてお祝いをする法会を成道会(じょうどうえ)といいます。
仏教では、真実(ほんとうのこと)を如実といいます。一般では「実力が如実にあらわれた」「戦争の悲惨さを如実に物語る写真」などと使われています。
その企てを起こすこと。仏教では、信心のこころの起こること。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、和讃の中の語を説明されて「発(ほつ)は、ひらきおこす。昔よりありしことをおこすを発という。起(き)は、たちおこす。今初めておこすを起という」とのべられています。
ほとけが、生死(しょうじ)の苦海に久しく沈めるわれらをたすけ〔済(さい)〕、彼岸の浄土へわたす〔度(ど)〕こと。転じて、苦しみや困難から救う意味で使われています。
こころを安らかにし、身を養うという意味で、阿弥陀仏のお浄土の別名です。「安養界(あんにょうかい)」、「安養国(あんにょうこく)」、「安養浄土(あんにょうじょうど)」などと使われています。
恩に報(むく)い、徳を謝(しゃ)すこと。
親鸞聖人(しんらんしょにん)は「仏恩(ぶっとん)の深いことを知り、報謝のために、ただ御名(みな)を称えるばかりです」とのべられました。
地方によっては、法事をつとめることを「報謝をもらう」という所があると聞きました。大事にしたい念仏者の言葉であります。
悪世(あくせ)における五種のけがれ。劫濁(こうじょく)〔時代の濁(にご)り〕、見濁(けんじょく)(思想のみだれ)、煩悩濁(ぼんのうじょく)(こころの悪化)、衆生濁(しゅじょうじょく)(社会のよごれ)、命濁(みょうじょく)(いのちの尊さを忘れる)の五種です。『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』に出ています。この悪世とは、現代の今日のことです。この教えをきいて、私自身が、まさにその通りですと受けとることができるかどうかが問題であります。
私たちが、浄土に往生するすがたを往相といいます。真宗は、すべて阿弥陀仏のおみちびきである他力廻向(たりきえこう)の教えです。なかでも往相は、その代表的なはたらきなので、一般的には往相廻向(おうそうえこう)という熟語で使われています。
真宗の行は、お念仏を申すことです。萬行は、このお念仏以外の諸行・諸善をいいます。例えば坐禅(ざぜん)、行脚(あんぎゃ)、荒行(あらぎょう)などです。和讃(わさん)に「萬善諸行(まんぜんしょぎょう)を修(しゅ)せしかど」などと用いられています。
どんな非難や仕打ちにも、じっと辛抱(しんぼう)して、耐え忍び、心を平安に保って、いかりの念をおこさないことをいいます。
自分の努力で悟りを開こうとする修行者の徳目(とくもく)のひとつです。
地下にある牢獄の意味。生前悪いことをした者が、死後に落ちてゆく最も恐ろしい、苦しみの極まった世界です。
源信和尚(げんじんかしょう)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』に詳しく述べられています。
名聞(みょうもん)と利養(りよう)の略です。名聞は、世間に名が知れること〔名誉欲(めいよよく)〕です。利養は儲けのこと〔財欲(ざいよく)〕です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、修行中をふりかえってみると、この名利にとらわれて大変な迷惑を蒙(こうむ)りました。また人々は、この名利をめあてに人師(にんし)を好む癖(へき)があるといましめられています。
まさしく確かに定まること。真宗では、阿弥陀仏に救われて、まちがいなくほとけの位(くらい)につき定まることをいいます。そして、その人々を正定聚(しょうじょうじゅ)(なかま)、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を正定業(しょうじょうごう)(たね)などと使います。正信偈(しょうしんげ)に「本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう)」とあります。
群(ぐん)はすべての人々。萌(もう)は未だ開かぬさま。聖人は「群萌は、よろづの衆生(しゅじょう)という」と説明され、経典の「欲拯群萌(ようじょうぐんもう)」を「よろづの衆生をたすけ拯(すく)はんと欲(おぼ)しめすなり」と解説されています。
仏教では、業(ごう)によって生死(しょうじ)をくり返す迷いの世界に六道(ろくどう)〔地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人(にん)、天(てん)〕があり、修羅道はお互いが闘争心で憎みあう世界をいうと説かれています。芝居などで悲惨な戦いの場面を「修羅場(しゅらば)」と表現しています。
経済活動で、ものが一か所にとどまらず流れていくことを流通(りゅうつう)といいます。仏法でも、教えがあまねくひろく伝わっていくことを流通と書きますが読みかたは流通(るずう)です。