境内の東入口となる門。平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせ、その最上階に大太鼓を吊っているのでこの名がある。明治5年(1872)の暦制改正によって時刻が西洋式となるまで、ここの太鼓が町の人々に時刻を知らせていた。太鼓番の人はこの門の長屋部分に居住し、梯子を昇って太鼓を打ってたらしく、今もその梯子が埃にまみれて残っている。宝暦2年(1752)には、40年間にわたって太鼓番をつとめた老爺に対し、門跡から褒詞が出されたとの記録があるから、宝暦2年を遡る40年前、つまり少なくとも正徳2年(1712)より時の太鼓が行われたようである。
現在の建物はいつの建築か審らかでないが、宝暦12年(1762)ころと推定される木版絵図には、現在地に一層だけの櫓をのせた”太鼓門”が描かれている。そして、文久元年(1861)の親鸞聖人600年忌法要の記念事業記録の中に太鼓門を三層に嵩上げした、という記事があるから、このときに大改造されたのであろう。大太鼓は、現用のものとは別に、破損した古い太鼓(直径約1メートル)が保存されているが、その胴内には、享保14年(1729)の製造と、その後3回にわたる修理についての墨書きがある。時の太鼓の遺品としては珍しいものではあるまいか。―高田本山の法義と歴史―より