一般的な鐘楼建築と同様に1間4方で、入母屋造の屋根をのせている。4隅の柱は、先を内側に倒した四方転びという形式である。その間には、八角形の柱が2本ずつ入れられている。肘木の先を大仏様風にするなど、全体的に奈良東大寺鐘楼に似たイメージを与える。平成5年から行われた大修理において、棟瓦から正徳3年(1713)の刻銘が発見されたので、そのころ再建されたものと思われる。
専修寺第15世住持堯朝上人の夫人高松院が、堯朝の7回忌を迎えるにあたって、慶安5年(1652)辻越後守重種と一族の氏種に鋳造させたものである。高松院は津初代藩主藤堂高虎の長女である。夫・堯朝上人は、江戸幕府より専修寺に伝わる親鸞自筆の文書を将軍家光へ献上せよと、働きかけたあったことに対して抵抗し、正保3年(1646)江戸で切腹したものといわれている。その時堯朝上人は32歳の若さであった。
作者の辻氏は津の釜谷町に住んでいた鋳物師で、この地方にすぐれた作品を数多く残している。 津市教育委員会の解説パネルより