生活の中のことば

51~60話

第51話 微塵(みじん)

 これ以上細分化できない粉々の状態をいい、「微塵切り」「木っ端微塵」などと使います。もとは仏教から出た言葉で、その十分の一を「極微(ごくみ)」と表現しています。

―ひとくち法話No51より―

第52話 衆生(しゅじょう)

 「衆」とは多くの人のことで、仏教では、この世に生きているすべてのものを「衆生」と呼んでいます。そしてほとけさまは、この衆生を救うところから「衆生済度」するなどと用います。

―ひとくち法話No52より―

第53話 祥月命日(しょうつきめいにち)

 祥月は、亡くなった当月で、命日はその当日のことです。「祥」は、めでたいしるしのことで、「命」は、いのちです。つまり、亡くなったご先祖さまをご縁にして、賜ったいのちをよろこぶ大事な時という意味です。

―ひとくち法話No53より―

第54話 勤行(ごんぎょう)

 仏前で読経などをする「おつとめ」のことです。一般には、精を出して善事を行うことをいいます。精進と同じ意味なのです。

―ひとくち法話No54より―

第55話 摂取(せっしゅ)

 取り入れて自分のものにすること。栄養を「摂取」するなどと使います。
 仏教では、仏の慈悲の光が迷い苦しんでいる人々を救いとることをいい、親鸞聖人は「摂はおさめとる。取はむかえとる」と意味づけされています。

―ひとくち法話No55より―

第56話 刹那(せつな)

 前後をわきまえず、その時々の感情だけで生きていこうとする考えを「刹那主義」といいます。極めて短い時間、瞬間のことをいう仏教語です。

―ひとくち法話No56より―

第57話 示談(じだん)

 裁判にかけずに双方が話し合いで争いを解決することを「示談で済ます」といいます。仏教では信仰上の質問や疑問に答えてお互いに話し合うことを「ご示談」といいます。

―ひとくち法話No57より―

第58話 解脱(げだつ)

 迷いから抜け出ることです。仏教では私利私欲から離れ、ものにとらわれない境地に入ることをいいます。親鸞聖人は「解脱というは、さとりを開き、仏になることをいう」と解説されました。

―ひとくち法話No58より―

第59話 安置(あんち)

 決められた所へきちんとおくこと。特に仏像や遺骨、位牌などを定めた場所に置くことをいいます。こころがやすらかに定まるのは、安置した仏さまと向き合うときではないでしょうか。

―ひとくち法話No59より―

第60話 円満(えんまん)

 形の整った福々しい顔を見て、円満な顔と言ったりします。仏法では、欠けたところのない、すべてが満たされている完全無欠という意味で使われています。

―ひとくち法話No60より―