涅槃図

高田本山所蔵 仏涅槃図 解説



釈尊の入滅を描く

お釈迦様は、三十五歳で悟りを開いてから四十五年間、インド各地を行脚して仏法を説き広められました。 そして八十歳になって、生れ故郷へ向かう途中で、純陀という人が布施として差し上げた茸に中毒して体調を崩し、 クシナガラの跋提河のほとり、沙羅双樹のもとで亡くなられました。 その模様は『涅槃経』という経典に記されていますが、それに基づいて描かれたのが仏涅槃図です。



大いなる死の造形

涅槃というのは、梵語のニルバーナを漢字にあてはめた語です。このニルバーナというのは、もとは「消滅する」という意味で、この場合、すべての煩悩が消滅して悟りを完成させた境地を指しています。 釈尊の死を「涅槃に入る」というのはそのためです。ある美術史家は、仏涅槃図を 「大いなる死の造形」 と言っています。 画面は中央に、宝台に横たわるお釈迦様を描きます。『涅槃経』に記すように「頭北面西右脇」で、涅槃の境地に入られた証拠に、全身が金色に輝いています。枕許に包みが置いてありますが、これは托鉢に廻るときに、施物を受けるための鉢を包んだものです。

四組の沙羅双樹

宝台をかこんで生えているのは沙羅の樹で、二株づつ計八本あります。 この樹は常緑樹なのですが、釈尊の死に際して突然白く変色したというので、この画でも向って右側三本は葉が白く変色しており、中央の二本も白くなりかけています。 「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」という『平家物語』の名文句は、この光景に依っています。 沙羅の樹の間から見える波は跋提河で、空には満月が輝いています。 釈尊入滅は二月十五日でしたから満月なのです。

駆けつけようとする摩耶夫人

画面右上部に、雲に乗ってこの場へ向かっている一団があります。 中央が摩耶夫人で、四人の天女が付き添っています。 摩耶夫人は釈尊の生母で、釈尊を出産して七日後に亡くなり、忉利天という所に生れかわっておられましたが、釈尊の死を聞いて、忉利天から駆けつけて来ようとしておられるところです。 先導しているのは釈尊の弟子阿那律尊者です。

悶絶する阿難尊者

宝台の手前で、手を投げ出して倒れているのは阿難尊者です。 色白の美男子で、いつも釈尊の側近に仕えていました。 そして釈尊が 「わたしはこれから涅槃に入る」 とおっしゃったとき、その意味がよくわからず、お引き留めしなかったために、涅槃に入られてあとからそれを後悔し、歎き悲しんで気絶してしまったのでした。 傍にいる人が、気絶した阿難に水をかけて、蘇生させようとしています。 その背後で、何かを釈尊へ捧げているのが純陀です。 先に自分の布施物が釈尊を中毒させたことを後悔して、代りの食べ物を差し出しているのです。

釈尊の足をさする人物

宝台に身をのり出して釈尊の足をさすっているのは、須跋陀羅という比丘だといわれています。 百二十歳で、釈尊のお説法を聞くためにここで待っていたのです。 それを知った釈尊は、最後の気力をふりしぼってお説法をなさいました。 この人は、釈尊の四十五年の旅をいたわって、足をさすってさしあげているところです。

お説法を聞きに集った動物たち

釈尊の最後のお説法があるというので、たくさんの動物たちが集って来ました。 まるで動物図鑑を見るように、いろんな動物が描かれていて、仏画の中で涅槃図だけに見られる特色です。 五十種もあるのではないでしょうか。 虎や象、水牛といった日本には棲息しない動物や、空想の動物も描かれています。マムシのような人間に危害を与える動物もいます。 彼らは平常は互いに喧嘩したり、喰いつ喰われつしたりしているのですが、このときばかりは争うことなく、みな一様に釈尊の死を悲しんでいます。 馬はひっくり返って泣いています。 また池があって、魚や水鳥が描かれていますが、これは一般の涅槃図にはほとんど見かけない珍らしい図柄で、この涅槃図の特色です。


江戸時代円山派画家の作か

画面は縦五m五十、横四mという、全国的にも珍らしい巨大な涅槃図です。 しかも豊麗な濃彩を用い、実に精緻に見事な画技で仕上げられていて、名品と言えましょう。 江戸時代後期の製作と考えられますが、残念ながら誰の作品かわからず、円山応挙の筆という言い伝えがあるだけです。しかしこの描写手法から見て、応挙門下の長沢盧雪かその一派の作品であることはまちがいないと考えられています。 (平松令三)

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